地獄の底から見上げてろ

 月島、あがってこい、もっと手を伸ばせ、列車の屋根に腹ばいになって呼ぶ鶴見中尉殿の後ろ頭をながめながら、このひとはなぜおれがこれを許すと思ったのかと考える。月島なんか、いちばんの邪魔だ、邪魔の先頭に居座っている男だ。影みたいに、あたりまえの顔をして鶴見中尉殿にはりついて、奉天で鶴見中尉殿を殴りつけて砲弾に吹っ飛ばされたあと、どこぞへ消えちまえばよかったのに、いまだ未練たらしく右腕の座におさまっている。おそらく土方一派のだれかを退けて、くだんの権利書を奪って来たのだろう。鶴見中尉殿の手もとにさっきまでなかったはずのアシリパの矢筒がある。それでもなお、鶴見中尉殿は月島に手を伸ばしている。
 ああ、またよそ見だ。
 背後から近づいても、鶴見中尉殿はふりかえらなかった。月島とボンボンが下でぎゃあぎゃあわめいているあいだに、小銃の台尻を思い切り鶴見中尉殿の後ろ頭に打ち付けた。ガツンと重い感触がし、鶴見中尉殿はひと声も漏らすことなく崩れ落ちる。変なふうに当たったのか、額あての革ひもがずれて落ちていった。奇妙な沈黙のなか、列車の走る音の合間を縫って、カン、とどこかに当たる音が響いた。一瞬おいて悲鳴じみた呼び声。倒れ伏した鶴見中尉殿の襟首をつかんで引き寄せる。顔をのぞき込んでも反応はない。目は薄っすら開いているものの、なにかを見ている気配はない。列車が線路の継ぎ目で立てる音に合わせてぐらぐらと揺れる頭は、演技ではないはずだ。たぶん、おそらくは。どこにもちからの入っていないからだは重くやわらかく、抱きしめるとあたたかくて、血と汗の奥になつかしいようなにおいがした。首筋に耳をつけ、脈を感じてひとまずは安堵した。
 銃剣術がどうやってもうまくならないおれを、このひとはいつか慰めてくれたっけ。射撃に秀でる者はえてして銃剣術が不得手なものだとかなんとか、銃を銃として以外つかうことができない者だとかなんとか、おまえの射撃の腕があれば上等兵になるうえでなんの問題もない、しかし今後のためにも腕っぷしは鍛えるべきだろうな、とかなんとか。しかし今回はうまいこと銃を鈍器としてつかって、首尾よく意識を奪うことに成功した。やはり、おれは正しいのだ。
 下からはまだわめき散らす声が聞こえる。そこにいるのはだれだ、鶴見中尉殿、鶴見中尉殿、返事をしてください! 加えてがちゃがちゃとものがふれあう音。呼びかけられても鶴見中尉殿は目をさます気配すらない。あいつらの声なんて聞こえちゃいない。むやみやたらに気分がよかった。鶴見中尉殿が列車から落っこちないようにささえながら、さきほど鶴見中尉殿がしていたように下をのぞき込むと、口をあんぐり開けたずたぼろのアホづらがふたつ並んでいた。
 アホづらどもに何と言葉を投げかけていいものか、少し悩んだ。いちばん効果的な言葉を叩きつけたかった。貴様らが樺太でおれの命をすくってくれた”おかげ”で、あるいは五稜郭からこの列車での決死の尽力の”おかげ”で、おれは鶴見中尉殿も権利書も手に入れることができた。金塊はこれからおれが回収する。貴様らにできることはなにもない、指をくわえて死んじまえ。
 つらつらと言葉は浮かんだが、口から飛び出たのはどこまでも簡素な言葉だった。
「ざまあみろ」
 感情よりさきに頬がひきつるほど口角が動き、いまおれが笑っていることを自覚させた。ざまあみろ、ざまあみろ、ざまあみろ! いまは意識を失っているこのひとが、これから見るのはおれだけだ。二度と、もう二度と貴様らなんぞに目移りさせることはしない。金塊にも、阿片にも、満州にもウラジオストクにも、側近気取りのちびにも高慢ちきのボンボンにも泥臭い百姓女の股からひりだされた安っちい駒にも! このひとは、これからただおれのためだけの参謀になる。おれのために考え、おれのために動き、おれを第七師団長の座へ押し上げるためだけに生きる男になるのだから!
 気が済んだので頭を引っ込め、鶴見中尉殿と”降車する”ための準備をはじめる。鶴見中尉殿の両手首をつかんでまとめ、つくった輪のなかに頭を突っ込んで背に負う。落とさないよう前かがみになって腰をひもでおれにくくりつけ、さらに鶴見中尉のからだごとたすき掛けをして、背中に鶴見中尉殿の胸と腹をぴったりとくっつけた。そうやって固定し終えてから、腕をおれのわきから腹に回させ、腕を腹に沿わせて縛った。
 うまくいけば多少のけがですむだろう。骨くらいは折れるかもしれない。悪くすれば頭や内臓をやられて死ぬ。だがいまは、そんなことは起こらないと自信を持って言える。すべてがおれの味方だ。世界はおれが正しいと言っている! そうでなければ、こんな好機がお膳立てされて、このおれの胸に飛び込んでくるわけがない。これこそが、やっとおれにもたらされた祝福なのだ。
 下から、がちゃがちゃいう物音が近づいてきたのを感じ、顔をむけるとそこにはボンボンの顔があった。どうやら必死に壁をよじのぼって来たらしい、しかし腕を屋根のうえにかけながらも、からだを持ち上げられないところを見ると、ずいぶん消耗しているようだ。怒りと憎しみに燃える、無力な目だけがおれを見ている。
「尾形、百之助……!」
「ははあ、”また”、落っこちに来たのか?」
 飛行船からぶざまに落ちていった姿を思い出して笑いが込み上げる。この場にちょうどいい杉元はいない。今回はおれが叩き落とさねばならない。
 姿勢を低く保ち、ボンボンのあごを思い切り蹴り飛ばした。感心なことに、いちどは耐えてしがみついていたが、二度、三度と繰り返すと、弾き飛ばされた虫みたいに落っこちていってどすんだのがちゃんだの音が立った。残念ながら線路までは落ちなかったようだ。もう這い上がることすらできないだろうが、這い上がってきたところで何度でも蹴り落してやる。だれもおれたちには追いつけない。この列車は地獄行き、てめえらみんな地獄の底で歯がみしながら、おれの出世をながめていろ。
 運命はおれに味方した。鶴見中尉殿とともに列車を飛び降りる一瞬の浮遊感のなかで、その言葉が頭を埋め尽くしていた。

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