地獄の底から見上げてろ
その家は街のにぎわいから離れた裏通りに建っている。高い板塀、花木がいろどる庭、質素を特徴とするという数寄屋造りふうでありながら、あちこちに彫刻や螺鈿細工が組み込まれていて奢侈がみえる。居間と寝間のほかは大した部屋もない小ぢんまりとしたたたずまいから、おそらくどこぞの助平親父が妾宅としてつかっていたものだろう。そいつがくたばったのか落ちぶれたのか、それとも囲われ女が逃げたのか、比較的安い値で売りに出されていたので、ちょうどいいと購入した。あのひとを置いておくのに、ちょうどいい家だ。
家のまえに着くと、門のうえから垂れる梅がこぼれ咲いてにおいをまき散らしていた。落ちた紅い花弁を踏みながら門をくぐる。玄関の引き戸を開けて、なかへ踏み込む。
「ただいま帰りました」
家の奥へ声をかけてから、上がりかまちに腰かけて靴に手をかけた。長靴は履きにくく脱ぎにくい。蹴るようにして放り、あのひとの気配がする居間へすすむ。ふすまを開けると、長火鉢に寄りかかるような格好で、長着に綿入れを羽織った鶴見中尉殿が新聞を読んでいた。ランプがあかあかとあたりを照らしていた。
「百之助か」
いちど上げた目はすぐに落ちる。あしらわれているようでむっと来て、ずかずかと居間へ入り、新聞を取り上げた。鶴見中尉殿が渋い顔をする。
「なんだ、子どものようなまねをして」
そう言っておれを見上げる黒い目に長い前髪が幾筋か垂れ、かつては額あてに覆われて見ることのなかった傷がそのあいまからのぞいている。この傷をながめるのは気分がよかった。智謀と嘘と愛とやら、そして整ったご面相でひとを惹きつけ遠ざける男の、中身をしげしげとのぞき込んでいるようで楽しい。
目のまえで新聞をたたんでしまうと、鶴見中尉殿はついにため息をついて、
「お帰り、百之助」
と言った。
ああ、やっぱりあなたはおれのことを理解してくれているのだ。
座布団を引いてきて向かいに座ると、鶴見中尉殿は返してやった新聞をわきに置いて、ひざ掛けを手繰った。腕を組んで問いを発する。
「有坂閣下のご様子は」
数日まえにここへ来たとき、わが参謀殿から言いつけられていた”お遣い”だった。天才的銃器開発者にして、鶴見中尉殿を大層気に入っている陸軍中将。副官に何度も頼み込んで御目通りかなったときのしょぼくれた背中がよみがえる、耳もとでささやいた(と言ってもある程度大声でなければ聞こえない相手なのだが)言葉を理解したときの目の輝きも。
「あなたのことを聞いてたいそう喜んでいました。近いうちにあなたに会いたいと言っていましたが、どうしましょうかね」
もちろんすぐには無理だろうということは理解しているが、それを鶴見中尉殿の口から聞きたかった。あれほど喜び、あれほど会いたがっていたあの爺さんを、理性的で冷静な判断から退ける言葉が。
鶴見中尉殿はゆっくりとまばたきをし、わずかに目を伏せて言った。
「……時期尚早だ。対外的にもよしみを通じてからにしなさい。少尉であるおまえと中将閣下が個人的な会食の席を設けても不審がられないほどに。銃はその端緒にできるだろう」
「わかりました」
なにかを思い出しているふうだったのは気にくわないが、まあ、悪くはない。それに鶴見中尉殿はもはやおれを介さなくてはあの爺さんに会うこともかなわないのだ。そう思えば許せる範囲だった。
「閣下は声がうるさいが、銃の話ができるのは楽しいですね。わたしの要望も聞いてはくれているようですし、三八をさらに改良した小銃を製作してくださることもあるかもしれません。そうなったなら、精密射撃部隊編成の後押しにもつかえるでしょう。もう少し軽くなればいいと思うんですがね」
鶴見中尉殿の生存を聞いてしょぼくれた雰囲気がなくなってからの有坂中将は、鶴見中尉殿の近況を聞きだすついでに「尾形百之助」が「鶴見君の言っていた優秀な狙撃手」であることを思い出し、三八式歩兵銃の具合についていろいろと話ができた。耳が遠い有坂中将との怒鳴り合い、たびたび挟まる「すまないが今何てッ!!!?」にはうんざりしないでもなかったが、銃に関する踏み込んだ話ができる相手は貴重だ。
おれが笑い話でもするつもりで彼の考案した銃口蓋の外れやすいこと、新兵がたびたび紛失して中隊総出でぞろぞろと兵舎や営庭に這いつくばり捜す羽目に陥って難儀したことを話すと、耳を聾するような大声で笑い、「しかし君、外れにくくちゃすぐ撃てないからねッ!!!!! だが小さいものだからなくしやすいッ、五六個もたせてやればいいのにねッ!!!!!」と言った。鶴見中尉殿が銃口蓋紛失の際にどこからかいくつかの磁石を借りて来て捜索に当たらせた話をすると、実に生き生きとして「鶴見君らしいねッ!!!!!」と喜んで見せた。あの爺さんも、芯まですっかり鶴見中尉殿に誑し込まれているのだ。いやはや大した手練手管に恐れ入るばかり。
その熱烈に愛されている鶴見中尉殿は長火鉢のふちを撫でながら、いくらか思案したあと、また口をひらいた。
「高山大佐殿と接触できたか」
これも”お遣い”の話だ。
「あなたの言うとおり、うわさを流していたら食いついてきました。葬式のただなかにいるようにお声をかけていただきましたよ」
褐色の肌、いかつい顔をした大佐殿がわざわざおれを呼び出して、ひと払いをした執務室で泣きださんばかりに縷々語ったことを思い出す。日露で散った勇作君が云々、潔く自裁して果てたお父上が云々、妾腹の子を認知するとはいかにも誠実な花沢らしい、顔がよく似ている、兵卒としてでもお父上を追って入営し、ここまで至るとは、花沢も鼻が高かろう、云々。あの間抜けづらのまえで、どれほど「花沢幸次郎も勇作もおれが殺したのですよ」と言いたかったか! 退屈な時間をその想像をめぐらすことで耐えた。
ざっと言われたことと言ったことを説明するあいだ、鶴見中尉殿はひとつふたつうなづきながら聞いていた。
「まえにも言ったが、彼は花沢閣下の古くからの知己だ。幼年学校からの縁は断ちがたい。薩摩閥、友人が多く、人望あつく、感情的でやや浅慮。誘導次第ではすすんでおまえのちからになってくれるだろう。つぎに声をかけられたら、勇作くんとの思い出話でもしておけ。しかし、もうひとつ後押しが必要だな」
長火鉢のかげにあった文箱を手もとに置くと、鶴見中尉殿は便箋を幾枚か取り出した。見覚えがある。あれは鶴見中尉殿の書いた手本で、おれはそれを丸写しさせられたのだ。慣れない万年筆を強いられ、字が汚いと言って練習させられ、やっと清書に至っても書き損じを指摘されて最初から書き直させられ、何枚書いただろう。心底うんざりした。書き写させられたその、内容にも。
「今月はじめに花沢ヒロ女史あてに送った”おまえの”手紙にはまだ返信がない。彼女の立場からするとおまえの存在に対する思いは複雑だろうが、夫とひとり息子を立てつづけに亡くしているなかで、いまだ再嫁もせず養子をとってもいない。姻戚から跡取りのことをせっつかれているころだろう。花沢閣下の胤であり少尉の地位についたおまえは、ヒロ女史にとって、花沢の家にとって、ふたりといない跡取りの有力候補だ。花沢家の縁者への手回しがきいたなら、利用できる可能性はある」
花沢ヒロ。花沢幸次郎の”正妻”、花沢勇作の母、おれにとっての……何だ? 取るに足らない女? 芸者くずれの山猫に夫をかすめ取られそうになった女。花沢ヒロはおれに対していったいどんな感情を抱いているだろう? 見当もつかない。真剣に考える気も起きなかった。どうだってかまわない。
「あの女の夫とひとり息子を殺したのはわたしなのですがねえ」
うそぶいて見せても、鶴見中尉殿はたいして表情を変えることなく、「知らなければ問題ない」と言い切った。まったく、血も涙もない!
「うまくいけばおまえは、彼女か花沢家のだれかの養子になる。尾形の姓を捨てる覚悟をしておきなさい。不発に終わるかもしれないが」
おっ母はあの女をどう思っていたかな。考えても答えは出ない。あの女がひどい時期に勇作を生んで(つまり花沢幸次郎が山猫とよろしくやるのと並行して妻ともあれこれ精力的にやっていて)、おっ母と赤ん坊だったおれは花沢幸次郎に捨てられた。狂った母は「幸次郎さま」を呼ぶばかりで、花沢ヒロや勇作についてはなにも言わなかった。恨みごとも怒りもなにも。
あの女がおれの戸籍上のおれの母になったとしたら、おっ母はどう思うだろう。その答えもまた出なかった。考えてもわからなかった。だが、いつか言われたとおり、立派な将校さんになるためなのだから、目こぼしいただくしかない。
ふと、目の端になにかうつったような気がして、背筋がこわばった。それを振り払い、鶴見中尉殿の膝元に寝転がる。ひざ掛けに顔を寄せると、もうすっかりなじんだ、鶴見中尉殿のにおいがした。このにおいを嗅ぐとみぞおちの奥がぬるくとけていくような心地がする。
鶴見中尉殿の手が伸びてきて、指がおれの額をなぞった。「しわになる、上着を脱ぎなさい」と言う。手を引っ張って、頭へ導くと、髪油で整えた髪に少しいやそうな手つきだったが、やがてあきらめたのか、おれの望みどおりに撫ではじめた。猫でも愛でるように。
そう、それでいい。
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