いつも月夜に米の飯

 コンコンコン、と扉を叩く音がして、月島は顔を上げた。いつの間にか部屋は薄暗い。扉に近づき耳をすませて、次の音を待つ。しばらくの間をおき、またコン、といちどだけ叩かれた。間違いなく鶴見だ。月島が息をついて扉を開く。その先には鶴見がいる。姿を見るだけで、ぬるい安堵が胸を満たし、部屋がぱっと明るくなったように感じる。月島はいまだ慣れない「おかえりなさい」を口にした。
「ああ、ただいま」
 鶴見は月島が受け取る暇もなくさっさと外套と帽子を掛けてしまうと、部屋を見渡して、「やあ、ずいぶんきれいになったな!」とうれしそうに言った。月島はもごもごと「時間があったので」と言い訳するように返した。鶴見にほめられることはうれしいはずなのに、気恥ずかしくて、わざわざ自分から打ち消すようなことを言ってしまう。しかし、鞄を椅子に置きながら鶴見は、そんな月島の感情の動きもお見通しという目で、ウンウンと頷いている。
「ほら月島、今日の練習だ!」
 鶴見が月島に向けて両腕を広げた。月島はウッと固まったが、鶴見をそのまま待たせるわけにもいかず、おずおずと近づいて、鶴見に張り付いた。ぎゅうっと抱きしめられるのに合わせて背に手をまわす。心臓がばくばくと早鐘を打っている。いつもと変わらない、鶴見のにおいがした。
 これはロシアで、挨拶として抱きしめようとしてきた相手を月島がとっさに突き飛ばしてしまったときからはじまった訓練だ。抱擁というらしい。何度もしていれば慣れる、とっさの反応を制御できるようになるというのが鶴見の言だが、月島はどうあってもいつまでも、この行為に慣れることができないように思えた。
「ああ」
 頭のうえからため息が落ちる。
「みっしりしているなあ、月島」
 そうでしょうか、と月島は言いそこねる。言葉がうまく出なかった。
 月島はものごころついてから、ロシアに来るまで、鶴見に抱きしめられるまで、互いに背に腕をまわし隙間なくくっついて体温を分け合うことが、頭がとろけそうなほどの多幸感を生むことを知らなかった。ねんねこ半纏にくるまれて負ぶわれた赤ん坊のような気分になる。夕暮れに家へ帰っていく女たちの背で、安穏と眠る赤ん坊を通りすがりざまに見上げたことが頭をよぎる。あのとき言葉にできなかった胸が凍り付く重み、平素よりもよたつく足取り、それが目もくらむような途方もない羨望だったことを、二十を越えてやっと知った。
 背を叩かれるのは終わりの合図だ。最初にためらったのと同じだけ、名残惜しいような気がして、それを悟られたくもなくて、月島は潔く身を引く。
「もうずいぶん慣れたんじゃないか? これならもう突き飛ばしたりしないだろう」
 微笑みながら鶴見が言う。慣れた。慣れたのだろうか? いまだに頭が茹るし、心臓はうるさく鳴る。だが、思わず相手を突き飛ばしてしまうか否かという点で見れば、月島はもう訓練の必要がないほど慣れたのかもしれない。そうだとしたら、もう訓練は終わりなのだろうか。
 月島が返事をしかねているあいだに、鶴見がつづけた。
「だが、もう少しやろうか。念のためにな」
 ぱちんと片目を閉じるのは、なんだかよくわからない意味があるらしい。魅力をふりまいているのだとか。月島には鶴見がわざわざそんなことをする必要があるとは思えなかったが、これをするときの鶴見はいつも楽しそうにしている。そのうえ、抱擁の訓練を、「もう少しやろう」と言われてほっとしたこともあって、鶴見がいつも以上に輝いて見えた。これが魅力をふりまかれたということなのだろうか。
「茶をいれましょうか」
 月島は提案した。茶は葉っぱに湯をそそぐだけなのでそれほどひどいことにはならない。ペチカに火を入れる必要もある。まず薪を用意しようとする月島を、鶴見が「待て待て」と制した。
「わたしの鞄の中身を見てごらん」
 月島は困惑した。そんなことを言われたのははじめてだ。鶴見の荷物の中身を覗いたことなんかない。しかし、鶴見はそれ以上は説明せずに、マッチをとって吊るしてあるランプに火をともしていた。
 首をかしげながら、月島は椅子に置いてある鶴見の鞄に手をかけた。茶色くて、一抱えほどもない革の手提げ鞄だ。恐るおそる口をひらくと、なかにはちいさな紙の包みと布袋が入っていた。
「あの……これは何でしょうか」
 鶴見はいつの間にかそばにいて、月島のやることを覗き込んでいた。
「なかを見てみなさい」
 月島は言われるまま、とりあえず布袋を引っ張り出して、縛ってある口をほどいた。なかでざらざら動く感触がする。中身を覗き込むと、ランプの明かりに照らされてそこには、白いちいさな粒が満ちていた。月島はすぐにはそれが何なのか理解できなかったが、気づいて、目を疑い、それがたしかにあることを理解して、叫ぶように声をあげた。
「こ、米だ! 鶴見少尉殿、米です!」
「いい反応だなあ」
 月島の坊主頭をざりざりと撫でながら、鶴見が感慨深げに言う。月島はといえば、鶴見の思惑どおりにおどろいて、袋の中身と鶴見の顔のあいだで目を迷わせていた。米だ。米だ! 夢にまで見た米だ!
「つ、鶴見少尉殿、いったい、どうやってこれを?」
「魔法をつかったのさ」
 人差し指をくるくると回して鶴見はそう言い、月島は信じそうになった。呆然として、米の袋を大事に抱え、魔法使いの鶴見少尉殿を見上げていると、我慢できないように笑いだした。
「魔法じゃない、魔法じゃない」
 笑いながら首を横にふり、鶴見は自分で言ったことを否定した。
「ではどうやって……」
「ウラジオストクには本願寺が来ている。彼らに米を少し分けてもらったんだ」
 ほら、味噌と漬物もある。紙包みを卓に置いて鶴見が言う。なるほど……と、月島はわかったのかわからなかったのかすらよくわからない心地になった。わかるのは、米がここにあることくらいだ。それだけはたしかだった。
 まだ呆然としている月島を後目に、鶴見は積んであった薪をかかえてペチカの焚口に入れ、火を投じてあれこれと調整しはじめる。はっと正気付いて鶴見に代わりますと言ったが、米をかかえたままだったので、鶴見を笑わせただけに終わった。
「ああ、言い忘れていた」
 鶴見が米をかかえたままの月島を振り返った。
「月島、誕生日おめでとう」
 耳慣れない言葉に、月島は思い切り首をかしげた。
「たん……じょうび?」
「やはりそうなるか!」
 鶴見はまた笑った。
「おまえは、まだ正月に年をとるくちだろう」
 正月に年をとる。それはあたりまえのことではないのか。年をとるのはみんな正月だ。首をひねっていると、鶴見は言う。
「なんだおまえ、明治生まれなのに。明治では、正月じゃなくそれぞれの誕生日に年をとるんだ。おまえの誕生日は今日、四月一日。だからおめでとう、だ」
「はあ……」
 釈然とせず、月島は奥歯にものが詰まったような気分になった。誕生日。そういえば、軍人手帳に誕生と銘打って年月日が書いてあった……ような、気がする。同じ頁に糞親父の名が書いてあったから、見るのも忌々しく、あまりひらくこともなかった。あれこれ考えている月島を、鶴見は面白そうにながめている。
「あと、おまえは自分を二十四だと思っているだろうが、明治のやりかたではおまえは今日二十三になったとみなすんだ」
 誕生日にひとつ若くなったな。そう言われ、月島はもっとよくわからなくなった。

 鶴見は月島が後生大事に抱えていた米袋を取り上げると、椅子に座っているよううながした。これから鶴見が米を炊くという。まさかまさか、そういうわけにはいかない。将校殿が立っているのに、兵卒が座っているわけにはいかないのだ。そういうことがすでに月島の性根に叩きこまれている。そのうえ、鶴見はただの将校ではなく、月島の命の恩人、あの子が生きていることを知らせてくれた大恩あるひとだった。
 まわりをうろちょろしている月島に、鶴見は「座ってなさい」と繰り返したが、何回目かにとうとう折れて、「水を汲んできてくれ」、「ペチカを見てくれ」と指示を出しはじめた。それにしたがって月島があれこれやっているあいだ、鶴見は鍋に入れた米をぎしぎしと研いでいる。米だ。米だ。飯だ!
 鶴見は水かげんをした鍋にふたをして、ペチカの焚口のうえにある鉄板に乗せた。
「見張ってなさい。ふたは開けずに」
 月島は「はい!」と返事をして、じっと米を擁している鍋を見つめた。いつもはシチーその他汁物が入っている鍋、いまは米を炊いている鍋だ。そう思うと、ところどころが焦げついている鍋であっても、なにか素晴らしいように思えた。鶴見はかぶを切りながら、「ああ、だしになるものがないなあ」と嘆いている。
「ですが、米があります」
 思わずそう反論すると、鶴見が笑い出し、「やめてくれ、手まで切りそうだ!」とひいひい言った。
 やがて鶴見がちいさく切ったかぶと水を入れた小鍋を崇高なる飯鍋の隣に置き、ふたりで鍋を見守るかたちになった。鶴見はまた月島に座っているよう促したが、月島は断ろうとして、ふと引っかかった。
「鶴見少尉殿」
 呼びかけると、鶴見がこちらを向いて首をかしげる。
「鶴見少尉殿はさきほど、おめでとうと仰いましたが、誕生日のなにがめでたいのでしょうか」
 鶴見は月島におめでとうと言い、座っていなさいという。月島が今日、祝われる存在であるかのように。しかし、今日は単に年をとる日というだけで、そんなふうに祝われる理由が見当たらない。もちろん、祝いの一環として手に入れてきてくれたのだろう米は本当に、死ぬほど嬉しいのはたしかだし、ここで「じゃあ、祝わなくていいんだな」と米を取り上げられたら、地にふして泣くとさえ思うが。
 鶴見は口ひげをいじりながら少し考え込むようだった。
「そうだな」
 じっと黒い目が月島を見据える。そして言った。
「おまえがいま、ここにいてくれてうれしいということだよ。それを祝うのに、誕生日がいい口実だというわけだ」
 ウンウン、と頷きながら、なぜか鶴見の手は月島の頬をはさんで揉んでいる。ぐにゅぐにゅに揉みほぐされながら、月島はつづく言葉を聞いた。
「月島、おまえが生まれてきてくれてよかった」
 月島は、ぽかんとした。どう考えていいのかわからなかった。おれが人殺しだと知っているひとが、おれが生まれてきてよかったと言う。どう飲み込めばいいのかわからず、鶴見が小鍋に味噌をといたときにも、頃合いを見て飯鍋をおろしたときにも、飲み込み切れない鶴見の言葉をずっと抱えていた。

 木べらをつかってシチーの椀にそれぞれ飯を盛り、味噌汁をそそぐと、物思いは棚上げにされた。米を匙で食べるのは妙な気分だったが、口に入れてしまえばそれも吹き飛んだ。ほっくりとしたあたたかさ、むっとただようにおい、口のなかでねっちりと粘り、噛むとほのかに甘い。米だ! 鶴見は「水が違うと味も変わるものだな」と言ったが、月島にはうまい飯だということしかわからなかった。米には違いないし、米に違いなんてない。米はみんなうまい。かぶの味噌汁もうまかったし、漬物もなつかしかった。勢いよくかきこんでいた月島だったが、ふとわれに返ると、鶴見が自分は食べもせずに月島を見ていた。居心地が悪くなるほどやさしい目だった。
「どうした? どんどん食べなさい」
「はい、いえ、しかし、少尉殿は……」
「わたしか? いやあ、おまえの気持ちよい食べっぷりを見ていたら、腹がいっぱいになってしまった」
 ほら、わたしのぶんも食べなさい。そう言って鶴見は自分の飯を月島のほうに寄せた。月島は受け取るのをためらった。米はうまいし、正直に言うならもっと食べたい。しかし、この米は、鶴見にとっても久方ぶりの米なのだ。それを奪っていいのか? 米袋にまだ米は残ってはいるが、ああ、しかし、米、米だ……
「遠慮しないで食べろ食べろ、おまえはまだ食べ盛りなんだから」
 さらにずいっと飯を寄せられて、月島はもう耐えられなかった。
「いただきます……」
「うん、召し上がれ」
 もうすっかり食べてしまった椀を置き、鶴見からもらった椀をとった。ありがたく味わって噛みしめる。なんとなし、味噌汁をすすっている鶴見を観察してしまう。汁だけで腹がふくらむものか? 思いつつ、飯をすくう匙は止まらない。すっかり静かになった月島を見て、鶴見は微笑んだ。
「おまえはかわいいね」
「……そんなことを仰るのは鶴見少尉殿くらいです」
「そうか? みんな見る目がないな」
 笑いながら、鶴見が手を伸ばして、月島の口のわきにふれた。なにかを親指の腹が掬い取っていく。月島は、鶴見がそれを口に入れる段になってはじめて、米粒だと知った。夢中になって米粒がついていることさえ気づかずにがっついていたと思うと羞恥がこみ上げ、顔じゅうがかっと火照って耳がうずいた。
「申し訳ありません!」
「なぜ謝る? そんなに喜んでもらえてわたしもうれしいばかりだよ」
 たしかに、鶴見はずっと楽しそうにしている。ずっと笑っているし、月島に米を見つけさせておどろかせようとしたときには、はしゃいでいるようですらあった。それらが、自分を祝うからだと思うと、不思議な心地だった。
 あらためて、と鶴見が言う。
「誕生日おめでとう。おまえにとってこの一年が素晴らしい年になるように」
 さっきはよくわかっていなかったみたいだからな。言われて月島は、棚上げされた言葉をおろす。おまえが生まれてきてくれてよかった。おまえが生まれてきてくれてよかった。繰り返し考えてようやく、その言葉を噛み砕いた米のように月島は飲み込んだ。それらはのどを通って腹に落ち、心地よい重みとあたたかさを発した。
「ありがとうございます」
 ようやく月島はそう言うことができた。
 米はいつだって、どこで食ったってうまい。
 だが、鶴見と食卓を囲んで食べる、鶴見が月島のために手に入れてきた米は、兵舎ではじめて食べたあの米よりも、ずっとうまく感じられた。

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