いつも月夜に米の飯

 ペチカのまわりに濡れた洗濯ものを掛けてしまったあと、月島はぐったりと椅子に座りこんだ。死ぬほど疲れた。ああいうふうに、おしゃべりに混ざるのは慣れていない。佐渡では月島を談笑のなかに混ぜるやつはいなかったし、兵舎ではぺちゃくちゃと私語をするようなひまはなかった。それはある意味、ありがたいことだったのかもしれない。
 ざわめいた、浮き立ったような気分が鎮まってから、水を飲み、懐中時計をひらく。まだ午後ははじまったばかりで、しかしもうやることはない。
 となれば、ロシア語だ。月島は荷物から勉強道具を引っ張り出し、卓に置いた。教本は鶴見がつくってくれたものだ。平易な文章から、単語、発音、格変化、語形の変化、むずかしい文法の話までが、流れるようなきれいな文字でつづられ、ひもで綴じてある。もうずいぶん垢じみて、擦り切れていた。それは月島が熱心に勉強をしたというあかしだから、少し誇らしい。
 穴だらけの薄い粗末な紙に単語や文章を書きつけながら、ぶつぶつとつぶやく。こうしているとなんとなく、鶴見に舌を引っ張られた感触が口のなかに蘇る。仕置きというわけではなく、発音するときの舌の位置を調整されたのだ。単語や格変化などを覚えること、文法をたしかめること、文章を読解することは、月島ひとりでもなんとかこなせる。しかし、発音の練習はそうではない。くちびるのかたちや舌の位置、のどの使いかた、発声のしかた、それらはいちいち鶴見に見て聞いてもらわなければ、月島にはわからない。その練習のとき、しばらくは鶴見が舌やくちびるの動きを手本として見せていたが、月島がどうすればいいのかいまいちわからないでいるのを見かねたのか、鶴見は「ちょっと我慢しなさい」と言いおいて、月島の口に指を突っ込んだ。目を白黒させる月島にかまわず、鶴見は舌を引っ張ると、無理やり位置を整えた。そうして発音させるのを繰り返し、やっと月島が舌の置きどころと動かしかたを覚えると、鶴見は満足げだった。何でも、鶴見もロシア語の教師にそうされたことがあるらしい。
 月島がいちばん苦手とする発音は「Р」だ。巻き舌で「る」と発音するのだが、うまくできた試しがない。鶴見は、これは訓練だと言った。るる、るる、とにかく繰り返すしかない。舌先に集中して、その振動をつくりだせるよう繰り返すことだ。そう言って、鶴見が発音した「Р」は、完璧な巻き舌だった。
 るる、るる、と繰り返してみたり、教本から「Р」を含む単語を拾って声に出してみたり、部屋には月島の苦闘の音が満ちる。だんだん舌が疲れて乾いてきて、水を飲んでまた繰り返す。「Х」、つまり息だけの「は」、「Л」、巻き舌なしの「る」、これらの発音も苦手だったが、音の調整に苦戦しているこれらは、ひとりで練習すると正しくない発音を記憶してしまうおそれがあるとして、鶴見がいるときに練習することになっている。よって、今日月島ができるのは、「るる」だけだ。
 あの井戸端の女たちは、当然だが発音が完璧だった。料理をもらうより、ロシア語を教えてもらったほうが有益なのかもしれない、と月島は考えたが、あのかしましさを思い出して打ち消した。それに、練習せずともあたりまえに発音できる彼女らには、日本人の月島がどうして発音ができないのかわからないだろうし、こつも教えられないだろう。月島だって、ロシア人に日本語の発音を教えることはきっとできない。
 女たちのことを考えたら、包みのことを思い出した。洋袴の衣嚢に突っ込んでいたものを取り出す。開けてみると、アリ<Fヒ(о”р”ехи、男性名詞!)がころころ詰まっていた。口に入れて噛み砕くと、香ばしく、ほのかに甘い味がした。豆菓子みたいだ。つぎつぎつまんで噛み砕き、あっという間になくなった。
 包みの底をながめて、月島はしまったな、と考えた。鶴見少尉殿のために取っておけばよかった。鶴見はまだ帰らない。きっと疲れているだろう。食事もないし、このアリェヒがあれば、口のなぐさめくらいにはなりそうだったのに。そう考えたがもうなくなってしまったものはどうしようもない。
 だんだん傾いてくる陽射しを窓越しに見上げ、妙に心細いような気になって、月島はよけいに「る」と教本に没頭していった。

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