いつも月夜に米の飯
持ち帰ってきた薪を部屋の隅に積み、昼飯にかたまりから切ったザヴァルノイをまた食べて、ひと息ついた。台所で立ったまま食べることは鶴見いわく「行儀が悪い」らしいが、月島は鶴見の目を盗んでこういう横着をしてしまうことが多々あった。どうも鶴見は育ちがよく上品で、殴られることはあっても躾などはされることもなく育った悪童の月島とは、常識が著しく異なる。きっと鶴見のほうが正しいのだろうが、鶴見のやりかたは面倒くさいというのが月島の偽らざる本音だった。
手からパンくずを払い、午後はなにをしようかと考える。鶴見はまだ帰らない。何時ごろに帰るということを、鶴見がひとりで出かけるときにはいつも言って行くのだが、今日はそうではなかった。言ったのは、夕食は作らなくてよい、ということだけだった。鶴見が食べないというわけではなく、単に作らなくてよいらしい。月島がひとりで作る料理は九割八分はひどい出来になるから、それを食べたくないのかもしれない。そう思うと、わたしが作っておきますと申し出ることも憚られ、かといって一日出かけて帰って来る鶴見が作るというならそれを止めたい気持ちもあって、そのとき月島はもにゃもにゃと不明瞭な返事をした。
掃除が終わり、料理をしないとなると、残っているのは洗濯である。月島はまとめてある洗濯ものと洗い粉を盥に入れ、ふたたび外に出た。
月島は井戸へ向かいながら、段取りが悪い、と後悔していた。まず最初に洗濯をするべきだった。そうしたら、掃除や薪割りをしているあいだに乾かすことができた。ペチカのそばにかけておけばすぐに乾きはするのだが、なんとなく時間を無駄にしたような気分がした。どうにも、ふつうに生活していくことに、月島は慣れていない。
井戸のそばには、中年くらいの女たちが数人、かたまっておしゃべりをしていた。ひとつ挨拶をするとみな目をまん丸くしてじろじろと不躾に見てくる。井戸から水を汲み上げて盥にあけるというあたりまえの動作さえ、なにかめずらしいものであるかのようにながめている。いたたまれないが、いたたまれないからと言って汚れたままの洗濯ものを抱えて帰るのは間抜けすぎる。それに、こういう視線にはもうだいぶ慣れてしまっていた。無視していると思われない程度、鈍感で気づいていないと思わせておくのがこつだ。と、鶴見は言った。どうやればそう見えるのか月島にはわからないが、とりあえず努力はしている。
布を水にひたし、泡立ちにくい洗い粉を布に擦り付けて、じゃぶじゃぶと洗う。襦袢の襟や靴下の底の汚れを丁寧に落とす。あまり力任せにやると生地を傷めてしまうから、慎重に。そのあいだ女たちが、こちらが聞いているとも思わないようすでしゃべりあっている。あっちのクワルツィーラの。ああ、リューダのとこ。日本人だってさ。ふたり。いろいろやってくれて助かるって。まあ、まあ。……ずいぶん筒抜けなのだなと月島は思う。女たちのうわさ話はあなどれない、鶴見少尉殿もそう言っていたっけ……
ふと気配が近づき、手もとに陰がさした。そうして声が落ちてくる。
「Эй, малыш.」
Малыш、マリシュ。ああ、これは月島がロシアに来てからたびたびかけられた言葉だった。男性名詞、口語、意味は「坊や」! 小男という意味もあるらしいが、気のよさそうな女たちが突然かけてくる言葉とも思えない。だが、月島はもう今年二十四になったのだ!
内心の葛藤は押し隠して、月島は何でもないように顔を上げた。女は興味をたたえた目で、やたらにゆっくりとしゃべりかけてきた。
「こんにちは、わたし、リーリヤ。あなたの、名前は?」
ずいぶん子どもあつかい、ロシア語が不得手なあつかいをされているが、否定する気も起きなかった。これほどゆっくり喋られる必要はないが、早口が聞き取れないのは本当のところだ。子どもあつかいは、利用できる。子どもは大人より警戒されない。そう言って鶴見は、たびたび子どもだと誤解されることにうんざりして、ひげを伸ばそうとする月島を止めた。背丈が低いのも役に立てるというわけだ。まったく、ぜんぜん、うれしくはない。
「基といいます、こんにちは」
手は動かしながら月島がそういうと、女はこちらをうかがっている井戸端の、たぶん友人たちに向かって、「アリメというのだって」と呼びかけた。そうしてまた月島に向きなおり、あれはリュドミラ、あっちはアイーシャ、黒髪がオリガ、あの子はリンマ……と教えてくれる。そのたび違う女から小さく手をふられて、月島はぎこちなく濡れた手をふりかえした。名前と顔を覚えることはとてもできない。
「アリメは、日本から、来たの?」
「はい、おじの仕事の、手伝いで」
ロシアで、鶴見と月島はおじと甥だ。月島は鶴見の姉の息子、貿易商のおじの手伝いで、ロシアに来た。まだ子どもだから、そう、まだ子どもだから! おじの仕事の詳細はよく理解できていない。なにかを売り買いして商売するとかなんとか。ロシア語は勉強中。そういうことになっている。
それらに合わせてリーリヤの世間話にぽつぽつ答えていると、いつの間にか女たちがそばに寄ってきて、洗濯を手伝っている。四方からあれこれ声がかかる。お仕事の手伝い。たいへんねえ。でも立派だね、よその国にくるなんて。まだ小さいのに。ロシア語がじょうずねえ。おうちやお母さんが恋しいんじゃない? おじさんはちゃんとあんたの世話をしてくれてるの? いくつなの? あら、十五歳。思ったより大きいのねえ。たびたび挟まるやわらかな笑い声。目がまわりそうだったが、洗濯はずいぶん早く終わった。
道の端にある溝に水を捨てて、女たちに礼を言う。彼女たちは手をふりながら、いいのよ。こんなの慣れてるんだから。立ち上がってみると、どの女も月島より背が高かった。今度なにか食べものを持って行ってあげる。リューダも世話してやってるんだろうけど、あの子も忙しいから。男ばかりじゃ食事がねえ。楽しみにしていてね。オリガはこのあたりじゃ有名な料理上手なんだから。
おそらく、本当に料理を持ってきてくれるだろう。そのときにはきっと鶴見がいるはずだから、彼が如才なく彼女らの世間話を聞くはずで、月島がこんなに目の回るはめにはならないはずだ。いや、どうだろう。もしかすると鶴見は、うろたえる姿を面白がって、彼女たちの応対を月島に任せるかもしれない。そのときの鶴見の笑顔が、目に浮かぶようだった。
おやつにお食べとちいさな包みを渡され、彼女らと別れて、月島はふらふらしながら家を目指した。
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