いつも月夜に米の飯
朝食を食べながら、鶴見が今日はひとりで出かけると言う。実質的におまえは置いてゆくと言われたことについて、月島の胸にはわだかまる不満があったが、それを黙殺してただわかりましたとだけ返した。そして日中自分しかいないなら、薪の節約のためにも今朝はペチカを焚かなくともいいかと考えた。だが鶴見にはそれがお見通しだったとみえ、食事を終えてすぐペチカに火をともし、そうしてあとの始末を月島にまかせて、出かけて行った。
鶴見が出て行ってしまうと、ペチカの焚口ではあかあかと火が燃えているのに、不思議に火がふと消えたような暗さが部屋の隅から這い出して来るように感じられた。鶴見がいるうちはそれなりの住居に見えていたものが、急にうす汚れたみすぼらしい場所のように思える。
だからというわけではないが、月島はペチカの火が燃え尽きるまで、掃除をすることにした。
ここに住んでいるのは鶴見と月島の軍人ふたりで、整理整頓と清潔保持を叩き込まれている。そう汚れてはいないはずだったが、木箱を台にして壁や窓から、絨毯を剥がしたり卓や椅子を動かしたり、寝台の下にもぐったり、徹底的にやってみると、意外に雑巾とバケツの水は黒っぽく濁った。そのころには折々で吸気口を閉じたり火の勢いを調節したりとあれこれ調整していたペチカの焚口の薪は燃え尽きて熾火に変わり、ペチカも部屋もすっかりぬくもっていた。さんざん動かした体には暑いほどで、月島は外でできることを考え、作業衣にしている上着を羽織って、あたたかい部屋から春とは名ばかりの寒さに身を投じた。
鶴見と月島の暮らすクワルツィーラは中庭をぐるりと囲むつくりになっていて、中庭の隅に薪置き場があった。大家の老夫婦が店子たちのために購ってきたものだが、できるだけゆっくりと長い時間火を絶やさないようにしなければならない暖炉と違い、一気に火を燃やし尽してあたためるペチカにつかうにはまだ太い。これを細かく割ってしまうのがここに来てから請け負った月島の役目だった。ひとに良い印象を与えるのは大切なことだ、鶴見はそう言った。実際、大家の老夫婦は月島のこの仕事をいたく喜んで、たびたび鍋いっぱいのシチーや瓶詰めのヴァレニエなどを差し入れてくれた。
太い薪を何本か引っ張り出しておいてわきに置き、そのうち一本を薪割り台へ乗せ、手斧を食い込ませてから台にたたきつけて一気に割る。ペチカ向きの針葉樹の薪はやわらかく、すっと刃が通っていく。割り終わったら薪小屋にかさね、また薪を引っ張り出して割っていく。これを繰り返すのは老人にとってつらい作業だろうが、まだ若い、軍隊で厳しく鍛えられた月島にとってはさほどの重労働でもなかった。頭がぼうっとよそごとを考えてしまうような、単純作業のひとつ。
自分の手が自分のものではないように、繰り返し動いているのをどこか遠くで感じながら、月島は朝食を思い出していた。薄切りのザヴァルノイに黒すぐりのヴァレニエ、作り置きのゆで卵、酢漬けのカプースタ。ああ、ああ……
米が食べたい。
それはロシアに来てしばらくたったころから、月島が熱烈に考えていることだった。
ロシアには米がない。というのは鶴見いわく正確ではないらしいが、とにかく、一般には流通していない。どこへ行っても、大きな市場をのぞいても、お目にかかることはできない。米屋がない、そもそも田んぼがない。これも鶴見いわく、ロシアは米を育てるには寒すぎるらしい。よって、ロシアに来てから数カ月、まだ数か月、もう数か月、月島は米を食べていない。
佐渡にいたころは、米を食べるなんてことは考えられもしなかった。飲んだくれては稼いだ金をすべてつかってしまう糞親父、幼い月島がよそで漁や畑の手伝いをしてやっと手に入れたごくわずかな食料や金銭さえ取り上げて食いつくし、残らず酒につぎ込む男、そんなものが家にいては、米を買うなどということは夢のまた夢だった。長じてからもなんの技術も知識もなく嫌われ者の月島は赤貧のその日暮らしで、米を買う余裕などなかった。あの子は月島の空腹を見かねて、たびたび家から持ち出してきた食べものをくれたが、彼女の家だって裕福ではなかったから、貴重な米を持ち出すなんてことは不可能だった。食べたことがないものを食べたいとは思えず、ひたすら雑穀や魚や海藻で食いつなぐ日々だった。
それが変わったのは入営してからだ。入営初日の夕食には、真っ白い米の飯と汁物、尾頭付の鯛という、見たこともないほど豪勢な食事が出た。なかでも月島をいたく感動させたのは米だった。やわらかく、ほくほくとして、噛むと甘くて、鯛そっちのけで(魚は佐渡で食べ飽きていた)夢中で食べた。月島があまりの勢いで食べるので、なにも言わないのに古兵が空になったアルミの飯椀を引き取って、飯缶からおかわりをよそってくれたほどだった。それから毎日三食たらふく米を食べられる(一日六合!)日々がつづき、厳しい訓練も演習も、古兵から言いつけられる面倒くさい雑用も、「でも、このあと米の飯が食えるんだよな」と思えばいくらでも耐えられた。それほど月島にとって米は偉大だった。
だというのに、ああ、いまは米をいっさい食べられない生活をしている。
ロシア料理がまずいわけではない。むしろ美味い。ひもじい生活から兵営でまともな飯が食えるようになったが、ゆったりと静かに、個人的に食卓を囲むという経験がなかった月島にとって、ロシアの家庭料理はこころをあたためるものだった。鶴見が慣れた手つきでつくってくれる料理は美味かったし、鶴見に丁寧に教えられて自分でぎこちなく料理をすることも新鮮で、それを鶴見とふたりで、「Вкусный」、あるいは苦笑まじりに「Невкусный」と言い合いながら食べることは不思議な感慨があった。幸福だった、と言い換えてもいい。
だが、その食卓に米があれば、もっといいと思うのだ。
幸福に慣れると人間はぜいたくになるらしい。佐渡にいたころは腹いっぱい食べることを夢みていた。兵舎ではもっとゆっくり食べられないものかと思うことがあった。そしていま、月島は佐渡にいたころには望むことさえできなかった、美味い飯で満ちた腹と、鶴見とふたりでゆったりと囲む食卓、あたためられたこころを抱いて、米が食べたいと希求している。
クソ親父を殺して首を吊られるはずだったおれが、こうして生きていられるだけで、すでにじゅうぶんすぎるほど恵まれている。これ以上は身の丈に合わない。そう考えて物思いを切り上げ、月島はあらかた割り終わった薪を積み上げた。
>>次