いとしき母よ、見知らぬ父よ

 自分が気づいたときにはすでに、母は気狂いでした。ですから、自分にとって母とは、狂ったもの、狂っておるものでした。世のなかのすべての母がそうではないと知ったときにはおどろいたものです。祖母や、表で立ち働く女たちが母とおなじ生き物だとはとても思われませんでしたから。
 父は存在しませんでした。ただいなかったというだけではなくて、そもそもそのようなものが存在することすら知らなかったのです。だれも教えてくれませんでしたから。だれもと言っても、母と祖母しか、自分に話しかけてくる者はおらなかったのですが。教えてくれたのは祖母で、自分が数えで六つのときだったでしょうか。祖母は父を、恥知らずの卑劣漢だとくちをきわめて罵りました。男子を授かったならきっと本妻とは別れて母をめとると約し、手ごめにしておいて、本妻が男子を授かると、なにも言わずに消えてしまった。騙されて捨てられ、狂ってしまった母が、愚かで哀れだと泣いていました。そして自分の顔をながめて父に、あの男に似ていると言い、また泣きました。

 母の眼は決して現実を見ませんでした。世話をしていた祖母、己の母親のことも認識していないようでした。たまに自分を目にとめてくれましたが、やはり現実を見ておりませんで、幼児を乳飲み子のように扱うのには閉口しました。もう母の手にはあまる重さを、それとわからずにあつかいますので、落としたり、ぶつけたり、母自身が手や腕を痛めたりしおるのです。やめさせようにも、気狂いですから、どうしようもありません。おとなしく落とされたり、ぶつけられたりしておりました。
 そんなふうですから、家のことなどできないかと思われるかも知れませんが、そうではありませんでした。毎日毎日、家のなかを掃き清め、洗濯をして、清潔を保っておりました。花なども飾っておりましたが、なにぶん、そのあたりに咲いておる野草でしたので、まあ、ままごとじみておりましたね。枯れても腐っても飾りつづけますので、あるときからそれを捨てるのが自分の役目になりました。
 料理もしておりました。つくるのはかならず、ふたりぶんです。母自身と、父のための食事です。当然、父のぶんはあまりますから、母が空にむかって食事をすすめるのに飽いて、よそへ行ったときに、自分がこっそり食べました。戻ってきた母が、からの膳を見ると喜ぶのです。たまに癇癪を起してひっくり返したときには、床から拾って食べました。母は料理上手でした。とくにあんこう鍋が絶品でした。冬のあいだは毎日つくるのです。毎日食べても飽きませんでした。今でも好物です。
 あんこう鍋は父の好物であったそうです。そのようなことを母がしきりに口にしておりました。母は父の好物をつくって父の来るのを待っておりました。つくりつづけておれば父が来るはずと信じ込んで居るようでした。
 母はいつも、しきりにこうじろうさま、こうじろうさまと呼んでおりました。そこにいるかのように話しかけたり、呼びながら会いたい会いたいと泣いたり。父の名だそうです。ご存知でありましょう。自分はそうと知らないものですから、てっきり、歌の文句かなにかだと思っておりましたね。
 まあ、なんにせよ、父はおらないわけですから、母はずっと会いたい者に会えず仕舞いであるわけです。そう思えば、笑っている母も、泣いている母も、ひとしく哀れでありました。
 自分は祖父が仕舞い込んだ村田銃を持ち出して、鳥を撃つようになりました。鴨が近所の水場に毎冬渡ってきておって、鍋にするとうまいなどという話を聞いたのです。撃ち落すまでは長くかかりました。弾も無駄にしました。近くに老いた独り者の猟師の家がありまして、そこからずいぶん盗みましたね。ええ、気付かれていたと思いますが、とがめられることはありませんでした。かわりにあけびやら、撃ち落せるようになってからは鳥やらを置いておいたからでしょうか。
 撃ち落した鳥を母にもやりました。鍋にしてくれないかと思ったのです。母が冬につくるのはあんこうの鍋ばかりでしたから。しかし母がそうしてくれることはありませんでした。しかたがないので鳥は腐るまえに埋めました。ですから、自分の実家の裏庭には、大した鴨塚があるのですよ。何百羽埋めましたかね。数えておりませんで、正確には……しかし、千にはさすがに届かんでしょうな。われながらよく撃ったものです。おそらく自分は鴨に祟られて死ぬでしょう。鴨に葱で煮られるのやもしれません。ははは。

 自分ら母子は、母が気狂いということもありまして、村八分のような扱いを受けておったのですが、まれに祖母が自分を外に連れ出すことがありました。村で葬式のあるときです。祖母なりに自分を村になじませようとしていたのかも知れません。村八分にされても、火事と葬式は別だと言われます。ならば逆に、弔問するのも別だと思ったのかも知れません。少なくとも表立ってとがめられることはありませんでした。母は気狂いですから連れてきませんし、自分が祖母に言われるまま焼香して、家の者に祖母が挨拶をして、帰るだけですから、自分が子どもでもありましたし、村の者たちも別段構うことをしなかったのでしょう。
 葬式がいったい何のためにいとなまれるものか、自分にはわかりませんでした。子どもでしたから。やたらにたくさんのひとが寄り集まって、死体を取り囲んで、あたり一面煙たくいぶして、みな一様に泣いているわけです。妙なものだと思いました。
 そう言うと、祖母が教えてくれました。葬式というのは、生前その死者を愛していたものたちが集まって、なぐさめあう儀式なのだと。大事にしなければならないと言いました。自分は……そう、なるほどと思いました。だからみな泣いておるのだなと。そうしてもうひとつ思いました。母を父に会わす方法です。
 母はいつもいつも父に会いたいと嘆いていました。自分は父に会うことのないまま十を数えました。母があんこう鍋をつくりつづけても、父は来ません。であれば父が来るのを漫然と待つのは間違いです。自分が母を父に会わせてやろうと思いました。どうやればいいかはわかっておりました。あとはやるかやらぬかです。自分はやりました。これで母はついに、気が狂うほどに会いたがっていた父と会えるのだと思いました。
 しかし、父は来ませんでした。

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