禍糾えるわが福よ
女どもの笑いさざめく姦しい声が、ずいぶん離れた角の向こうから聞こえてくる。ちょうど行き道だ。いちいち引き返し遠回りなどするのもしゃくで、そのままずんずん進む。
「三菱のえらえもんてに聞いたっちゃけも」
「ひゃあ、玉の輿。けなれえなあ」
「ひとめで見初められるっちゃ、芝居みたあなこつがほんまにあるっちゃねえ」
「色は白いし見目はええし、なあより異人さんみてな髪だものお。本土の船乗りが言うちょったで、女の異人さんなこなあな髪にすっためにぐるぐる髪を巻くんやって」
「へええ。おいも巻いてみよかいなあ」
「そんのんしゅうてん、らちかん。あたみたあなへちゃむくれ、いご草頭からはやしたっちゃ、どっこの旦那も見初めてなんかくれんよう」
きゃあきゃあと騒いでいた声が、角を曲がり、こちらを見とがめてふつりと途絶える。忌む眼、疎む眼、恐れる眼。病をおびた野犬のそばを通るかのように息をひそめて通り過ぎていく。足音を忍ばせ、けれど目線だけは外さずに。行き過ぎてようやく息をしたように、しかし声は押し殺してささやきかわしている。距離は遠ざかるのに、やけにはっきりと聞こえる。
「……兵役逃れしたてさ」
「あげにむっさんこしよって。四つ角の芳吉あんちゃんは甲種でとられたちゅうに、あのがめがとられんなんちゃ、もつけねえ」
「軍隊で仕込んでもろたら、少しゃまともになったかもしれんに」
「ぶちねこらって、ほんものの兵隊さんには勝てやせんろ、怖じて逃げてきたっちゃん」
「そいか、人殺しの息子な、軍隊さんやていじゃあっちゃろ」
「そおらけも、あがんえぞかがめもん、だいか喰らしつくっかほたっか、こいらけんしかしよらんちゃ」
きゃらきゃらと鈴をふるような可憐な声が、耳から背中から切り裂いていく。そうしていちばん最後に言葉が響く。ひと言も言葉を交わしたことなどないはずなのに、忘れえない声が背に迫る。走る。遠ざかる。どこまでも重い重い足で走っていく。しかし、声は、耳に張り付いていつまでもはがれない。
「だすけん、あんもんな、みんなにきらわれるっちゃね」
木戸を蹴り倒して家に踏み入る。親父が酒を喰らったか赤い顔をして眠っている。「あの月島のところの子ども」「人殺しの息子」「悪童」、繰り返された言葉がめぐる。生まれるまえから決まっていた。そう呼ばれることがさだめられていた。この男の種から生じたがために。蛙の子は蛙。蔑みの眼にこぶしで、蹴りで応えた。怒りには憎しみを返した。もっとちがう方法があったのか。もっとちがう道があったのだろうか。徴兵検査の知らせを受けるまで、己の名すらも知らなかった。だれも呼びはしなかった。それでも、もっとただしい道があったというのか。
己のすべてはこの男からはじまり、そして己の行動でこの男の息子であることを証明しつづけてきた。たまたま引き込んでいた風邪を肺病やみとやぶ医者に誤診され、一兵卒にすらなれなかったことさえ、島のみなは、なにか不正をしてそうなったかのようにささやき合う。
親父がだれを殺したものか、どんな悪事を働いたものか、知りはしない。知りたくもない。しかし、この男さえいなければ、すべてはもとよりちがったはずだ。擦り切れ垢じみた茣蓙のうえを歩く。酒と脂くさい男の塩っぽいにおいがたつ。この男さえいなければ。この男さえ。その腹のうえに馬乗りになる。酔いが深いのかめざめない。
袷を握りしめ、頬骨へむけて思い切りこぶしを振り下ろす。肉と骨を叩きくだく重い感触、指のつけねに血があつまり燃えたつ。もういちど。さらにもういちど。この男さえいなければ。血しぶきが壁に散り、頭の中身がこぼれだす。どす黒い血が、のどの奥から空気と混じってのぼってくる音が笑い声に聞こえる。この男は笑っている、このおれを嗤っている、この男さえいなければ、この男さえ存在しなかったならば、おれはこうして生まれずにすんだ。
「……だすけん、……みいんなに、きらわれたっちゃね」
乗り上げたからだが華奢なおんなのものに変わっていた。手にまとわりついていたのはよごれた血のはずが、澄んだ海に浮かぶあのいご草によく似た髪だ。横たわるおんなは顔に赤く青くあざを浮かべてなにも見ていない。生きていない。死んでもいない。
絶叫は実際に、月島ののどを震わせたようだった。
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