禍糾えるわが福よ

 目を開くと同時に現実をとりもどした。砲弾がかすめ内臓をえぐり取った腹の傷の痛みは耐えがたく、夢だのうつつだのと迷わせてはくれない。
 しかし、明るい月光に浮かびあがったかたわらの影に気づくと、急にすべての実感が遠ざかった。頭が欠けただけだ、からだはぴんぴんしていると言ってはばからない鶴見の背だった。月島とともに寝かされている重傷者になにかを語りかけてやっているようで、その声は蜜のように甘かった。
「……こたびの戦争は、かならずやわれらが勝つだろう。日本は富む。笹中、なんの心配もいらないよ」
 嘘だ。あまりにも甘い嘘だ。列強が、日本という小国、しかも「黄色い肌の猿がすむ国」が栄えることを望むはずもないことは、なにもかもがはじまるまえから鶴見が語っていたことだった。われわれは黄金を投じてくず鉄を得ることになる、命を投じてただ骨を得る。
 しかし、鶴見は嘘をつくが、ふつうは、ただだますということはしない。笹中という男は、もう、じきに死ぬのだろう。答える声は力なく、午睡のさなかに目覚めさせられたもののようだった。
「……中尉殿、子がおるのです、自分の顔など覚えちゃおらんでしょう、……まだ赤んぼで、父を知らぬ子が、まともに男として育つものか、自分はそれが、それだけが……」
 包帯を巻いた頭がゆっくりとうなづいてみせる。きっと鶴見は微笑んでいる。すべてをいとしむような微笑みを、それにたやすくだまされるものたちを、月島は何度見たことだろう。
「おまえが守り、富ませた国が、おまえの功績を語る。おまえの生きざまを、父としての姿を息子に教えるだろう。……話しすぎたようだな、すこし眠りなさい」
 弱弱しくすすり泣くような声と、布が動く音がしばらくしていたが、やがて途絶えた。そうしてそのまま月島を見ずに、鶴見が声をあげた。
「お早う、月島軍曹。うなされていたようだが大丈夫か」
 これほどそらぞらしい言葉もない。鶴見は月島がうなされているのを知りながら、揺り起こすこともなくただ寝かせておいたのだ。笹中という男には、死にぎわの蜜をそそいでおいて、月島はただ、悪夢の泥に転がるままにした。
「さわがせて申しわけありません。そちらの……」
「うん、もう死んだ。先刻まではふたりしてうなっていてひどかったが、まったく、モルヒネは優秀な鎮痛剤だな」
 からになった注射器をもてあそびながら鶴見が言う。月島にも、鶴見自身にも、おそらく一滴もそそがれていない蜜だ。あちこちの医療天幕からは苦吟が聞こえる。しかし、貴重な鎮痛剤は、いち下士、一兵卒にはせいぜい手術のときにしかまわってはこなかった。それさえないこともあった。まえに、月島の腹の傷を処置する衛生兵まがいの軽傷兵がこっそりとささやいた。鶴見は将校であるがために処方されるモルヒネを、もはや死を待つばかりの兵卒たちに打っている、と。
 月島の頭は欠けなかった。だからその痛みはわからない。鶴見にも、裂かれた腹から膿をぬぐい取る処置の凄絶な痛みはわからないだろう。しかし想像することはできる。なにしろ、砲弾のかけらは、鶴見の前頭部を、脳ごとえぐり取っていったのだ。脳は痛みを感じないらしいときいたが、骨はちがう。月島は腹をえぐられる程度の傷ですみ、月島が怒りのままに戦場に留めおいたために、塹壕への避難を遅らせられた鶴見は、月島が身を挺してまでかばったにもかかわらず、いつ死んでも不思議はないという重傷に終わった。笑い話のような顛末だ。
 かたわらの膿盆に注射器を置き、鶴見は半身を月島に向けた。にぎっていた力ない死者の手を胸にのせてやり、うすくひらいていたまぶたをおろしてやってから、鶴見は笹中という男から手を離す。そうしてこんどは、月島の腹に手を伸ばす。痛みを予期して、からだをこわばらせたが、ふれるかふれずかのあいまいな距離でたどられただけで、鶴見の手よりもむしろ、月島のからだの反応自体が傷をきしませた。それを悟ったように鶴見が笑う。
「私だって傷をえぐったりはしない」
 鶴見が膿盆をいじる。金属と硝子とがふれあう不思議な音がする。鋭いとも鈍いとも、心地よいとも耳障りとも言いがたい、妙な音だ。
「おまえもこれがほしいかね」
 指さきで注射器をたどり、鶴見が言う声は、すこし甘い。月島にはそれが腹立たしい。即座にいいえと否定を返す。
「われわれは阿鼻叫喚の地獄に身を投じるのでしょう」
 じつの父親を恨みだけで殴り殺すよりも、ともに飯を食った戦友の血を浴び骨肉をもとでに進むよりも、あるいは、あのおろかしくもほの甘い記憶を踏みにじり穢すよりも、忌まわしいところへ踏み入るのならば、地獄の痛みをやわらげる薬も、極楽を見せるという麻薬も、ひとしく不要のものだ。
 鶴見が、ことここに至ってもまだ整えている口髭のかげでゆるやかに笑う。きぬ擦れの音をさせて月島に近付き、毛布をはぐって腹に額をやわらかに落とす。包帯ごしに合わさったなまの傷は、おそらくは双方にはげしい痛みをもたらした。月島は、月島自身の痛みだけを感じたはずだったが、なぜだか、きしむような激痛を額におぼえた。
「おなじ傷だ、われらはこれで真の戦友と言えるな」
 くぐもって聞こえる言葉に、真剣みはすこしもない。信頼できるのはおまえだけだ。低く苦いその言葉だけを、月島は信じると決めた。
「真の戦友よ、教えてくれまいか、先刻どんな夢を見ていたのだ」
 撫でるともなく、包帯のうえに手を浮かせてから、鶴見は月島に毛布を着せかけてやりながら、戯れ言のようにそう訊ねた。月島はしばらく考えた。死体をさがしてさらった海。親父の頭骨を砕く感触。背嚢に仕舞われているいご草のようなあの髪。会戦まえに撮ったなにも知らぬ自分と、すべてを知っていた鶴見の写真について。
 最後の極楽の夢ですよと、月島はやっと答えた。