あなただけに尽くす

 観客席の照明が落とされ、明るく浮かびあがった舞台上にそのひとがあらわれた瞬間、息が止まったような気がした。後ろに撫でつけられた黒髪、切れ長で黒目がちの目、つややかな生地の燕尾服、わずかに微笑んで観客にこうべを垂れ、ピアノに向きなおって裾をはらい、ピアノスツールに腰掛ける動き。指さきまで計算されたような優雅さ。拍手も忘れて音之進は見入る。メインのヴァイオリニストも、席を埋め尽くした観客も、隣に座す兄たちさえ、消えてしまったように感じた。
 ヴァイオリンの奏でる音色からはじまるベートーヴェン、ヴァイオリンソナタ第九章クロイツェル第一楽章。やわらかに澄んだピアノがゆったりと重なる。ときおりヴァイオリニストをうかがいながら、ヴァイオリンをささえていた音が、やがて競いあうように響きを変える。白い指さきが踊るように走り、会場じゅうを音楽に沈める。溺れる。鍵盤に指を叩きつけるような激しい演奏がふっと静まったあと、ひそやかに息を吹きかえす。
 第二楽章に入るまえ、ヴァイオリニストと目くばせを交わし合う彼の、息遣いさえ音之進には聞こえた気がした。ゆるやかなピアノからはじまり、ゆったりと流れる大河のような調和がやがて小鳥の鳴きかわす音色に変わり、応酬はやがて勢いを増す。雄大にひろがっていったかと思えば、せせらぎのきらめきが聴こえた。
 第三楽章、叩きつけるように響くピアノがあたりに満ち、軽やかなヴァイオリンがそれにつづく。音色は重さを増し、速さを増し、華やかに重厚にステージを支配する。星のまたたきのようなピアノがきらきらと輝き、ささやくように、とどろくように響く。おだやかさと激しさを行き来しながら、終わりを感じさせて昇ってゆく。
 終わらないでほしい、音之進はそう思った。何度か家族で知り合いの主催するコンサートへ訪れたことがあったが、こんなふうに思ったのははじめてだった。永遠につづいてほしい。この音をずっと聞いていたい。ピアノを弾くあのひとを見つめていたい。
 けれども終わりはおとずれる。ふたたび華やかな旋律が舞台を揺らし、たたきつけ、ストンと終わる。終わってしまった。水を打ったような静寂ののち、万雷の拍手。ピアニストは立ち上がり、ヴァイオリニストとともに頭を下げる。長い拍手に応えて二度目、そして彼が顔をあげたとき、その瞬間、音之進ははっきりと思った。
 目が合った。彼がこちらを見ていた。その瞬間、すべてのものが明るく色づいて、世界はこんなにもうつくしかったと思い出した。いままで無視してきた、目にとめることもなかったもののうつくしさが音之進をつらぬいた。もちろん、彼の花のようなかんばせもともに。
 そのあとも演者が入れ替わりコンサートはつづいたが、音之進の耳には彼の奏でた音色だけがずっと響いていた。

 音之進は母がヴァイオリニストに渡すために持ってきていた花束の一輪を頼み込んでもらい受け、父にすぐ戻ると約束し、いぶかる兄を振り切ってコンサートホールを飛び出し、関係者以外立ち入り禁止の札がかかった通路のまえで待った。しばらくすると、彼があらわれた。壇上にいたときとはちがい、服を着替え、髪をおろしていたが、音之進にはわかった。震えるような音の海に溺れさせてくれたひと。最後のあいさつで音之進を見て微笑んだひと。
 ふつうの人間として歩いている彼のまえに、音之進はぎくしゃくと回り込む。彼がおや、という顔でこちらを見る。音之進はそれだけで緊張が足もとから駆けあがってくるのを感じた。このままでは道をふさぐ不審者だ。彼が足を止めて音之進の出方をうかがっているからよかったが、こんなふうではさっさと横をすり抜けられても仕方がない。
 どうする、どうする、どうする。
 ぐるぐると考えた音之進は、ここでするべきことをしようと跪いた。彼がおどろいているのがわかったが、立ち去ろうとはしていない。それに背中を押され、音之進は握っていたオレンジ色の薔薇を持ち上げて彼へ向けた。
「す、素晴らしか演奏でもした! いままで聴いたことんなか音で、こがんピアノがこん世にあっもんかと! 最後、挨拶んとき、おいを見ちょりゃせんじゃったですか!? あ、はな、はな、花を受け取ってたもし!」
 彼は、音之進がもつれる舌をほどきほどき、そこまで言い終えるのを待っていた。そしてする、とオレンジ色の薔薇が抜かれ、彼は花に顔を寄せた。すうっと息を吸うと、「いい香りだね、ありがとう」と言って、やわらかく微笑む。それは舞台上で見せた笑顔とはちがい、すこし砕けた雰囲気があった。
「きみ、名前は?」
 彼がかがんで音之進と視線を合わせる。薔薇の香りと、またべつの、かぐわしい香りがただよう。音之進は頭がぐらぐらしたが、なんとか「こいとおとのしん」とそう絞り出した。 「やっぱり! 平二さんのところの子どもさんだね、十四歳だったかな?」
 顔立ちが似てるなあ、と、鍵盤を叩いていた白い指で頬を撫でられ、音之進はもう限界だった。気絶しそうだった。しかし、訊ねなければならないことがあった。気力を振り絞り、狭まるのどからかすれた声をつむぎだす。
「あ、あたの、名前を、教えったもし」
 彼は思案するようにまばたきをして、「名前かな?」と首をかしげた。音之進はがくがくと何度も頷く。
「わたしは鶴見篤四郎。きみのお父上にはお世話になっているんだよ」
 よろしくね、と言われて、薔薇をさしだすかっこうのままだった手を握られて、照明を背に負ってきらめくその姿に、しびれたように真っ白になった音之進の頭にポンと言葉が浮かんだ。運命。そう、これは運命だと。

 それから音之進は頑張った。父親にねだって近隣で鶴見が参加するコンサートの情報は絶対に逃さないようにしたし、学生としての時間が許すかぎり聴きに行った。毎回花束を持参したし、和菓子が好きだと知ってからは名店の菓子をつぎつぎ差し入れた。幼いころにやめてしまったヴァイオリンを再開してあらんかぎりに練習をして、ピアノと合わせたいという名目で、いま鶴見の家にいる。
「緊張しているのかな?」
 アップライトピアノに向かい、ゆったりときらきら星を弾きながら鶴見が言う。音之進は泣きそうだった。あれほど弾き、あれほど練習したあの日のクロイツェル、ヴァイオリンの教師が「第一楽章はとりあえず弾けている」と評価したそれが聴くも無惨に壊れていた。鶴見の家は鶴見のにおいがして、鶴見がいて、鶴見のピアノが響いている。音之進は運指もままならず、弓を持つ手やヴァイオリンをはさんでいる首まで震えだしていた。
「す、すんもはん……」
 泣きだしそうになりながら謝る音之進に、鶴見はピアノスツールに腰かけたままふりかえって笑い、「合わせるのはまた今度にしようか」と言った。言われるままヴァイオリンをケースに仕舞い、ぐつぐつと沸き立つ自己嫌悪に縮こまる。あの運命の日に鶴見が奏でていたピアノに合わせたかったのに。鶴見に聴いてほしかったのに。そのために練習してきたのに……ひざを抱えている音之進の手に、あたたかいものがふれた。
「冷たいな。これじゃうまく動かなかっただろう」
 鍵盤のうえで踊る手、その手が音之進の固まった手を握り、揉みほぐしていた。爪の付け根、手のひら、指を包んで、鶴見の体温が少しずつ音之進の手をあたためてゆく。白い指が音之進の褐色の肌にからむさまはどこか官能的だった。鶴見が近い。鶴見が見ている。鶴見の手がふれている。そのすべてを理解して、音之進は「キエエエエェ!!!」と叫んだ。
 鶴見はびっくりした顔で音之進を見ていたが、やがて合点がいったように気まずそうな顔をした。
「すまないね、手なんかさわったりして」
 そう言って鶴見が引きかけた手を、音之進は握りこんで離さなかった。ピアニストの指、そう思えば握りしめることなどはとうていできなかったが、ただ離さないという意図だけは手に込めた。鶴見は不思議そうにまばたきをしたが、手は音之進に取られたままにしてくれた。
 音之進は鶴見の手のひらを見つめる。厚みがあって、指はしなやかに伸び、爪は完璧なかたちにカットされていた。ついさっきまであたたかいと思っていた手が、いまは少しつめたいように感じる。心地よい感触だった。
「大丈夫かな?」
 はっとして音之進が顔をあげると、鶴見が気づかわしげにこちらを見ていた。
「だいじょっです! すんもはん、練習してきたとじゃが、うまっできらじ、こげんつもりじゃらせんじゃったとじゃが、……」
 言い訳ばかりが口をついて出る。あまりの見苦しさにまた涙が出そうだった。
「いいんだ」
 音之進の手を握りかえして鶴見が言う。
「平二さんから聞いたよ。わたしの演奏を聴いてまたヴァイオリンをはじめたんだって?」
 音之進は大きくうなずく。最初は鶴見の演奏を見ているだけで満足だった。けれどあるとき思った。鶴見とステージ上で微笑みかわし、ともに奏でる演者を見て、思ってしまった。彼の世界に入りたい。彼の世界の一員になりたい。ともに奏でる仲間として自分を見てほしい。そう思って、幼いころ兄を追いかけてはじめ、飽きてやめてしまったヴァイオリンをふたたび手に取ったのだ。
「それを聞いて嬉しくて、音之進くんといっしょに弾けたらいいなとずっと思っていたよ」
 ありがとう。
 それを聞いて音之進は、体が震えるのを感じた。体温が上がって、耳や鼻さきがうずくように熱くなる。息が詰まって、心臓が高鳴って、どうしようもなく、音之進は鶴見の手を引き寄せて、その手のひらにくちづけた。
「好っじゃ……」
 鶴見の手がこわばるのがわかった。それでも火照った顔に鶴見の手は心地よくて、手放すことができない。うつむいて、床と鶴見の足さきだけを見て、インフルエンザに罹患したとき以来の発熱をかかえている音之進の額に、ぴんと指が弾かれた
「いだっ」
 思わず額をおさえたすきに鶴見の手が離れていく。はあ、とため息が落とされたあと、鶴見は床にへたり込んだままの音之進を残して、ピアノスツールに腰かけ、脚を組んだ。
「きみは何歳だ?」
「せ、先月十六になりもした」
 鶴見は頭が痛いというように、額に指をあてている。
「わたしは何歳だか知っている?」
「三十六歳やろう……」
「知っているんだな」
「おやっどに訊きもした!」
「あ、そう」
 鶴見は音之進が見たこともないようなむずかしい顔をしている。しかし、悩みに沈むようなそのさまは不思議になまめかしく、はじめて目にするあたらしい鶴見に、音之進の胸は高鳴っていた。
「年が離れすぎているとは思わない?」
「思いもはん!」
 音之進は思い切り否定した。たしかに音之進は鶴見よりもだいぶ年下だが、これから年をとっていけばそのうち気にならなくなるはずだ。たぶんそう。百歳と八十歳ほどになれば、だれが二十の年の差なんて気にするだろう? 音之進はその年まで絶対に鶴見とともにいる覚悟だし、鶴見には絶対に長生きしてもらう。
 顔を真っ赤にして前のめりに語る音之進に、鶴見は目を覆った。
「百歳と八十歳もけっこうな年の差だとわたしは思うぞ」
「そげんこたありもはん!」
 鼻息も荒く否定する。音之進は興奮していた。鶴見はここまで、嫌いだとか気持ち悪いとかそういうことはいっさい口にしていない。なだめ諭すつもりなのかもしれないが、それは恋する少年にはあまりにも生ぬるかった。もしかすると問題なのは年の差だけで、ほんとうにそれだけで、鶴見どんはおいのことを好きなのでは!? そう思うくらいには。
 音之進は膝立ちで歩いて、ピアノスツールに寄った。ひざのうえで組まれていた鶴見の手につつみこむように手をかけて、まっすぐ目を見上げてまくし立てた。
「鶴見どん、鶴見どんなおいといっしょに演奏そごたっちゆたどね、おいも鶴見どんとずっといっしょに演奏をしよごたっ」
 はあ、と鶴見がため息をつく。
「早口の鹿児島弁はさすがに聞き取れない。ゆっくり話してくれるか」
 音之進ははっと口に手をやる。もしかすると鶴見には、音之進の言葉が聞き取れないことがたびたびあったのでは? それでも鶴見はいつも音之進の目を見て話を聞いてくれた。これはやはり、運命で、一生の恋で、不滅の愛なのでは!? そう思いつつ、音之進はなんとか気持ちをおさえて、できるだけゆっくりと言い直した。
「ずっととは言ってない……」
 またため息。鶴見どんはため息をつくだけでも絵になる……音之進もため息をついて、うっとりと鶴見を見上げた。鶴見はどこまでも黒くうつくしい目で音之進を見下ろしている。しばらくそうしていたが、鶴見は手を伸ばして音之進の頭を撫でた。それは視線を遮るようでもあった。
「……きみは子どもで、わたしは大人。子どもとは恋愛できない」
「おいが大人んなればよかゆうこっじゃなあ!」
 喜色満面、かたちのいい頭を鶴見に撫でさせながら音之進の声が跳ねる。だんだん鶴見の手が乱暴になって、撫でることよりも髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜることを優先しはじめても、音之進は抵抗せず鶴見に身をまかせていた。
「そうだな」
 鶴見が音之進の後ろ頭に指をかけ、ぐいと引き寄せた。かがんだ鶴見と息がかかる距離で向き合って、思わず叫びそうになったが、口をおさえて音之進は耐えた。こんな距離で叫んだら鶴見の耳を痛めてしまう。
「二十一歳。そのときにきみがわたしのことをまだ好きだと言うなら、わたしも考えようか」
 言って、鶴見はぱっと音之進の頭から手を放した。音之進はぐんにゃりと崩れ落ちる。鶴見どんが。鶴見どんが。鶴見どんが、おいが二十一になったら、恋人になってくれると言った!
「あいがとさげもす!」
 音之進は起きあがって、鶴見の足もとにひれ伏す。鶴見が「考えると言っただけだぞお」とかさねた声も聞こえない。音之進はいま十六で、鶴見が言ったのは二十一で、あとたった五年。たった五年で鶴見が音之進の恋人になるのだ。
「ちなみにおまえが二十一のとき、わたしは四十一だぞ」
 鶴見の言葉に音之進は首をかしげた。
「知っちょりもす、そいがどげんかしちょるでしょうか」
 鶴見はしばらく音之進の不思議そうな顔をながめていたが、やがて天井を仰ぎながら、
「あ、そう……」
 とだけつぶやいた。

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