ひともむなしき

 日差しがやわらかく降りそそぎ、庭先に咲き乱れる花をあかるく彩っている。義弘はそれらをぼんやりとながめている。ずっとずっと長いこと、ながめているような心地がしている。
「おじうえ、おじうえ」
 背中から声がした。はずむような軽い足音と甲高い声、顔を見ずとも誰かは知れる。返事をせずにいると、胡坐をかいている義弘の、脇の下から腕をもちあげ、ひざの上に顔を出した。義弘がようやくそちらに目をやれば、きらきらとかがやくような瞳とかち合う。うれしくてたまらないといったふうに、にかっと笑う。そのままぐいぐいと腕と腿のあいだをくぐりぬけて、義弘のひざの上に陣取ると、満足したように鼻を鳴らした。ぴんぴんとはねた、かたい髪の毛が義弘の顎のあたりをくすぐる。
「なにをしてるんですか?」
「庭を見ておる」
「たのしいですか?」
「さあな」
 温い体がひざのうえでもそもそと動くもので、義弘はひどくくすぐったい思いをする。義弘の胸に背を押しつけて、見えすいた希望で輝く目が義弘を見る。
「とよとあそんだら、たのしいですよ!」
「餓鬼と遊んでも、つまらぬ」
 言われるなり、ぶうとほおを膨らませて、もうこどもではないですと言う。
「このあいだ、ひさやすとあそんであげました。ころんでけがしないように、ちゃんと、とよがてをひいてあげたんですよ」
 義弘はふっと笑った。豊久が、義弘のまだちいさな次男・久保に、兄貴ぶって世話を焼く姿を想像すると、妙に胸が温くなった。それはそれは、と言いながら、己が手をもちあげ胸のまえにある頭に乗せる。ぐりぐりとなでると、ちいさい頭が右へ左へ、大きく揺れる。
「それは、礼を言わねばならんな、豊久」
 豊久はきゃっきゃと笑い、義弘のひざのうえで身をよじっていたが、ついにころんとそこから落ちた。さらには、義弘が坐していた、縁側からも落ちた。義弘は思わず腰を浮かせかけたが、体が重く、立ちあがることはかなわなかった。手を縁側のふちにかけ、下をのぞき込む。
「豊久」
「伯父上?」
 声はやはり、背から聞こえた。
「猫ですか?」
 義弘が何も言わぬあいだに、義弘のそばを通りぬけて縁側から庭先に下り、かがんで縁の下をのぞきこんだ。にゃあ、にゃあ、と下手な鳴きまねも聞こえてくる。やがて立ちあがり、こまったように義弘を見た。
「奥に行っちゃったのかな……伯父上、いないですよ」
 そう言って、縁側にあがり、足の土をはらいはじめた。そのさまを義弘はじっと見ている。ひんやりとした風がびょうと吹いて、あたりに紅の葉を散らした。
「豊久」
 呼ばれて豊久は義弘を見た。
「なんですか?」
 見あげてくる目はきょとんとまるい。胸を占めた、漠としたうつろを、その目を見るあいだはふと忘れた。なんとなしに、手を伸べて、ぐいぐいと頭を撫でてやる。慣れた、ざらつく髪の感触が手のひらに心地よい。
「わっ、伯父上、なんですか!」
 おどろいたように豊久が悲鳴をあげるが、その声ははんぶん笑っている。と、手のひらに、髪とは違う感触を得た。手をはがすと、紅葉が豊久の髪にからまっている。それは、豊久がぐしゃぐしゃになってしまった髪をととのえるあいだに、落ちた。風を切るように空をすべって落ちる、そのさまを義弘は見ていた。
 そうだ、と豊久が声をあげる。
「歳久伯父がお怒りですよ」
「歳久がか」
 義弘は、己のすぐ下の弟の顔を思いえがく。歳久。昔から妙に神経質なところがあり、義弘の、歳久いわく『無茶、無謀なふるまい』に関してはことのほかうるさく口をはさんでくる。長兄義久も、義弘の『無茶、無謀なふるまい』に関してなにがしか言いたいことがあるようだったが、義久がそれらを『義弘なればいたしかたあるまい』とのみこんでくれるのに対し、歳久は、どうしても説教をかさねなければ気がすまぬようだった。
 ふだんは、温厚で怒りなど見せぬ弟である。その理由はどうせ己が何かをしたせいだろうということはわかる。心あたりはごまんとある。
「きっともうすぐここに来ます。すっごく怒ってたから」
「また堅苦しく説教か」
「たぶん。伯父上が逃げ出さないように、走って行ってつかまえておけって歳久伯父に言われて、だから来たんです」
「わしがおびえて逃げると思うてか、歳久めがずいぶんな自信よな。そのくせ、目付役は餓鬼か」
 義弘がふんと鼻で笑ってやると、豊久は憤然と反論してきた。
「おれ、伯父上に勝つのはまだ無理だけど、つかまえておくくらいならできます! もう子どもじゃないんです!」
「それは怖い、怖い」
 逃がさないという意思をあらわすためなのか、豊久が義弘の腕を強くつかんだ。痛いというほどでもないが、日々鍛錬にはげんでいる豊久の精進にたがわぬ強さである。わざとらしく首をすくめて怖がってみせた義弘に、憤懣やるかたなく唇を引きむすんでいる幼さにはまだ危さを感ずるが、いずれそれを克服してゆくだろうと確信できるものが豊久にはある。
 しかし、いまはまだ餓鬼だ。
 戸口のほうからがたりと何かをうごかすような音が聞こえると、「あ、歳久伯父だ!」と言うなり、豊久はすぐさま跳ねるように立ちあがってしまった。当然、義弘の腕も離して、はや駆けて行く。出迎えに行こうとは殊勝なことだが、己の役目はどうやら頭から抜け落ちているらしい。首をねじってふりかえると、同じくふりかえった豊久と目があった。
「おれ、めいっぱいお説教してくださいってお願いしてきます!」
 豊久は憎たらしく笑って、姿を消した。あさはかな餓鬼め、と義弘は笑う。もし、ここで義弘が説教を厭ってどこかしらに消えてしまえば、説教は間違いなく豊久にも降りかかるだろうに。それ以前に、目付役が目を離して何とするか。もちろん、義弘は、尻尾を巻いて逃げようなどという考えははなからないのではあるが、寸時、そうしても面白いと考えた。誰もおらぬ縁側に目を丸くする豊久と、兄のたわむれと甥のしくじりに烈火のごとく怒りくるうだろう歳久の姿は、想像があまりにたやすく、また愉快だった。
 結局義弘は、逃げだすことなどせずに坐したまま、ふたりが、まなじりを釣り上げた弟と、虎の威を借る狐のごとき甥がやってくるのを待ったのだが、あたりは静まりかえり、誰の足音も声も聞こえては来ない。
 来たのは歳久ではなかったのか。あるいは、物音は、単に風かなにかのしわざだったのか。ならば豊久はすぐに戻ってきてもよさそうなものだが、気配もない。歳久を呼びに行ったか。つらつらと考えているあいだ、なぜか、己の心臓が早鐘のように打ちはじめているのを、義弘は感じた。豊久がもどらない。奇妙に、口のなかが渇きはじめている。義弘は、身をよじり、いざるようにして豊久が去っていった先を見る。
「豊久」
「おじうえ、およびですか!」
 べたり、と背に何か張り付く感触がする。ちいさい手が肩をつかみながら、ちいさい足が背中を蹴りながらよじ登り、細い腕が首にかかった。首が締まってはたまらないので、まえに腰を折り、後ろ手に足をささえてやると、その手を足がかりにさらによじ登って、義弘の肩におさまった。頭のうえからさかさまにのぞきこんでくる。
「およびときいてこのとよひさ、まりかこしましてごじます!」
 言ってから、己の言葉に違和をおぼえたのか、まりかこ、まかりこ、まこりこし、などとぶつぶつつぶやきはじめた。
「豊久、重いぞ」
 実際には、重さなど苦にも感ぜぬほどのものだったが、義弘はそう言って、ひょいと己の頭のうえへ豊久をもちあげ、ひざの上にうつした。もちあげられているうちはぽかんとしていた豊久だったが、われに返ると、
「おじうえ、すごい! もういっかいしてください!」
 と、うるさくさわぎはじめた。言いながらまたよじ登ろうとするのを押しとどめるうち、義弘は、豊久からうっすらと馬のにおいがすることに気づいた。なるほど、と納得する。豊久が、ひどく舞い上がっているようすなのは、このせいだろう、と合点がいった。
「いままで何をしておったのだ」
 押しとどめる義弘の腕をかいくぐって、なんとか「もういっかい」をしてもらおうと奮闘していた豊久は、かけられた声に、虚を突かれたような顔をしたが、すぐに目をかがやかせた。
「うま! うまです! ちちうえが、うまにのせてくれました!」
 そう言いながら、みじかい腕を精いっぱいに伸ばし、体をひっきりなしに揺らす。
「うまは、こんな、こんなに、おおきいし、あついし、すごくはやいし、すごい!」
 単純なもので、先ほどまで義弘をよじ登ろうとしていたことはすっかり忘れたらしい。ふれていないところからも体温を感じるほどにかっかと興奮しながら、豊久は、父・家久と馬に乗ったことを理解しがたい身振り手振りで熱弁しだした。
「とよもたづな、もったんですよ! とよがじぶんで、ちゃんと、くらにのれるようになったら、とよにもとよだけのうまをくださるって、ちちうえが! でも、まだ、せたけがたりない! おじうえ、とよのせ、あとどのくらいで、うまにとどきますか!」
「さあな」
 義弘のひざのうえにおさまっている豊久は、小ぢんまりとしていて、まだ馬よりも犬にでも乗っていたほうが似あいに思える。豊久が己の馬を得るまで、おそらく、いままで生きてきた年数と同じ長さを待たねばならないだろう。しかし、その年数を説明したところで豊久は理解するまい。だから、義弘はただわからぬふりをしたのだが、そのふりを見ぬけるわけもない豊久は、もともとまるい、子犬のような目をさらにまるくして、義弘の顔をまじまじと見た。
「おじうえにもわからないこと、あるんですか?」
 どうやら、豊久には、義弘が全知の神か仏に見えるらしい。心底ふしぎそうにそうたずねてくる。わからぬことくらいあるなどと、あたりまえのことを言ったところで、やはり豊久は理解するまい。豊久がこれだけ幼いうちは、全知の神仏でいるのもよかろう。
「せいぜい腹一杯飯を食い、よく寝ることだな、ちびの餓鬼め」
 納得しかねるといった顔をしている豊久の頭を、ぐりぐりと撫でてやる。しかし、豊久は一人前に背をまるめ、落ち込んだようにふうと息をついた。
「とよは、いっぱいたべていっぱいねてるのに、まだちいさい」
 ひどくかなしそうにそう言ったかと思うと、かくりと細い首が垂れた。ずるずると倒れていく、その体は温石のようにあたたかくなっている。まさに糸が切れたように突然に寝入った豊久をすこしもちあげ、寝苦しくないよう顔の位置をうごかしてやった。規則ただしい寝息に、義弘までねむくなりそうだ。大口をあけてあくびをし、涙をぬぐっていると、足音が近づいてくるのが聞こえた。
 足音は部屋のまえで止まり、ふすまの向こうから声がかかった。義弘は、腿に片耳を押しつけ眠っている豊久の、もう片方の耳を手でふさいでやってから、その声にこたえた。
 ふすまを開いたのは、義弘の近習であった。一礼をして、話しはじめる。
「家久さまよりの使いの者がいらしております。急ぎではないとのことですが如何なさいますか」
 家久か、と義弘は考える。豊久の迎えのために来させたものだろう。豊久の姿が見えなくなったら義弘兄者のところを探すのが一等早いと、家久が言っていたのを思い出す。しかし、わざわざ使者を立てるとは、ずいぶんあの弟も悠長なことをするようになったものだ。
「豊久は眠っておるゆえ、あとで送り届けると返せ」
 己の言葉に、空気が凍るのを感じた。ふりかえれば、濁った眼にも、近習がうろたえているのがわかった。そのさまに、どうやら己はまたなにか粗相をしたらしいとのみ込む。このごろは、いつもそうだ。なにかするたび、なにか言うたび、義弘はひとを戸惑わせ、狼狽させる。気遣わせてしまう。豊久だけが変わらず、ただ笑う。
 豊久。
 義弘は目をもどし、ねむる子の顔をのぞき込もうとする。しかし、そこにあるのは己のひざばかりである。何かからのがれるように顔をあげ、庭を眺める。もはや花は散り、紅葉すらも枯れ果てている。静まりかえった庭には、もうにどと、春も秋も巡りこぬようにみえる。
「豊久」
 いつも声は背から聞こえる。