rain, rain, go away.
たとえばなにかひとつ、いいものをもらったなら、兄はすこしも迷うことなく、それをわたしの手のひらに乗せた。兄はそういうひとだった。だれにでもやさしくて、だけれど、妹のわたしにはとりわけ、もっとずっとやさしかった。おなじく兄をもつ友人たちが、自分の兄がどれだけ横暴でうっとうしいか、そのふるまいがどれだけ粗野でゆるしがたいかを言いあうとき、わたしはなにも語る言葉をもたないで、ぼうっとしているほかなかった。兄はわたしに対して声を荒らげたこともなければ、悪意のあるからかいをよこしたこともない。ましてや手をあげるなど。生まれてからいままで、兄は、わたしを傷つけることなど、ひとつもしてこなかった。
だから、わたしには、起こったことのすべてが、なにかの間違いによるものだとわかっていた。なにかひどい、ひどい間違いだ。あの男たちの言ったように、あの男たちになにかを頼んだのは兄かもしれない。けれど、兄はけっしてこんなことを望みはしなかっただろう。わたしの腕の中にいる、わたしの恋人、頸には食いこんだロープのあとが巻きつき、冷えたからだはぐったりと倒れ伏している。悪夢のような一夜、この町のどこかで、すでに燃え尽きただろう彼の家、彼の母親。すべて、ひどい間違いだ。絶対に、兄は、こんなことを望まなかった。
それがいったいなんのなぐさめになるだろう。
彼は死んでしまった。彼の母親もおそらく死んでしまった。殺された。いのちはもう戻らない。すべて終わってしまって、もはや取り返しがつかない。兄はこんなことをけっして望まなかったはず。それはわかっている。生まれてからいままで、ずっといっしょに暮らして来たのだ。だからわかっている。しかし、それが、いったいなんだと言うのだろう。起こってしまったこれらをまえに、それがいったいなんの言いわけになるだろう。
これらすべてをもたらした兄を、わたしはけっしてゆるすことができない。なんてひどい妹だろう。わたしは兄の、たったいちどのあやまちさえゆるすことができない。わたしをこのうえなく愛してくれた兄の、意図せず起こしてしまったこのあやまちさえ。そしてこれらすべてをもたらした兄を、わたしは憎むこともできない。なんてひどい恋人だろう。わたしは彼とその母親にあたえられた苦痛と死を知っているのに。彼の冷えた手をにぎる。わたしは、あなたのために憎むことも、泣くことさえできずにいる。
乾いた地面に、彼を横たえる。彼の魂はきっと、彼の母とともに天国にのぼっただろう。兄もいずれ、天国へのぼるだろう。ただいちどのあやまちを、神さまは、神さまならゆるしてくださるはずだ。わたしの愛したひとびとはみな、きっと天国へのぼってゆくのだろう。だから。足を踏み出す。崖の向こうに湖がみえる。雨の気配すらない晴天のもと、あまい水のにおいをただよわせている。足を踏み出す。崖際に立つ。
だからわたしは、地獄に落ちたい。
***
DISCを頭から抜き出し、エンリコは手で顔をおおってためいきをついた。ペルラは、妹は、ウェスを兄とは知らないままに命を絶ったのだとわかった。それはせめてものなぐさめだろうか。DISCを仕舞って、エンリコは席に座りなおした。そろそろ離陸の時間になる。
ペルラは、ウェスを兄とは知らないままだった。しかし、襲撃してきた男たちが、エンリコの依頼で動いていたことは知らされていた。ペルラはいったいどう感じただろうか? 恋人と恋人の母親の殺害を、兄が依頼したと聞かされたときに。記憶のDISCからは、感情や思考までは読みとれない。ペルラがなにを思ったのかなど、いまとなってはだれにもわかりはしない。わかるのは、エンリコのペルラを傷つけまいと起こした行動こそが、ペルラの心をズタズタに傷つけて、死を選ばせたということだけだ。
知らずに罪に歩み寄ってしまっただけの、無垢な妹を絶望とともに死なせ、罪科なく弟やその『母』を殺して、もっとも罪深い、呪われるべきエンリコだけが生き残った。それら変えようのない事実をまえに、彼らの悲嘆や絶望について思いをめぐらせたところで、己の軽挙を悔いたところで、時はもどらず、すべては無為だ。
一年前、エンリコは得体のしれない男につまづいた。そのことに、意味があることを信じるか、と男は言った。そのときには意味のわからなかった言葉が、いま、おそろしいほどの重大さをもってエンリコの心を占めている。すべてが運命にさだめられ、意味をもつのだとしたら、この悲劇の意味はどこかにあるはずだ。彼はきっとその答えを知っている。彼に会わなければならない。エンリコは、その答えを知らなければならない。でなければ。エンジンの音と振動があたりをふるわせる。
そうでなければ、ペルラ、おまえの死に意味がないのならば、ぼくは永遠にすべてを呪って生きていくほかなくなってしまう。