だいぶあうとしのだ
頬や、目もとに、忍田のくちびるを押しあてられると、それだけで、頭がぼうっとしてくるのが、太刀川はいつもふしぎだった。からだから力が抜けて、骨がすっかり溶けてしまったみたいに、ぐったりしてしまう。ほんとうは、自分から忍田に、抱きついたり、いま忍田が太刀川にしているように、キスをしてみたりしたいと思っているのに、まるでぬいぐるみか人形みたいにひざにかかえられて、されるがままだ。忍田の大きな手のひらが、背中にそえられていなければ、とっくに床に転がり落ちてしまっている。
しのださん、ぎゅってして。
ふわふわして、まわらない舌で、自分がしたいのにできないことを、忍田にねだる。頭のうえで、すこし笑ったような気配のあと、背中に腕がからんで、太刀川のからだは、ぎゅうっと忍田の胸に押し付けられた。太刀川は、とくとくと脈打つ心臓の音と、しびれるようなぬくもりとを感じて、背筋をふるわせた。
慶、と名前を呼ばれる。ゆっくりと、忍田の手のひらが、背中をなぞりながら、うなじを覆う。それが合図だと、太刀川はよく知っていたので、いつもみたいに、口をすこしだけひらいて、忍田を待った。
忍田が、果物をかじるようにして、太刀川の舌をかむ。そうされることを期待して、ほんのすこし、くちびるからさきに出していた。太刀川のうすっぺらい舌なんか、簡単に噛み切ってしまえそうな大きな歯で、ことさらやさしくあまがみされる。噛んだあとをたしかめるように、忍田の舌さきが太刀川の舌をなぞり、口のなかにもぐりこんでくる。そうされると、太刀川の口のなかは、忍田の舌でいっぱいになってしまう。たばこのにおいのする、にがい舌さきで舌を撫でられて、息をするのにすら、苦労するありさまになる。忍田はいつも、太刀川が苦しさで死んでしまいそうになるまえに、息をさせてくれるけれど、それでも、すこしは、苦しい思いをする。けれど、それでも、忍田のにがい舌を食べさせてもらうのは、すごく気持ちがいいことだ。
だから、苦しいのをがまんする覚悟はじゅうぶんにしていたのに、忍田は、いつもよりずっとずっとみじかい時間で、太刀川の口のなかから舌をひいてしまった。追いかけようとしても、どこも思うように動かない。太刀川は、しのださん、と呼ぶ。もっと、責めるような、うらみがましい声で言ったと思ったのに、口から出た声は、あまったるくてどうしようもない。忍田は、なだめるみたいに太刀川のくちびるを吸って、けれど、太刀川が舌をのばしても、こたえてはくれなかった。
まだにがいか。
急にそんなふうにきかれて、はじめ、太刀川は、なにを訊かれているのか、そもそも、なにか訊ねられているということすら、よく理解できなかった。まだにがいか。忍田が、もういちど、おなじ問いをくりかえしてやっと、理解がおよんだ。すこしまえに、太刀川自身が言った、「忍田さんの口のなかは、いっつもにがい」という言葉も、思い出した。
うん、にがい。
忍田の口のなかは、ひところにくらべればずいぶんうすれたけれども、いまでも、ほんのり、たばこのにおいがして、にがいような味がする。なので、太刀川が素直にそうこたえると、忍田は、そうか、と言って、考え込むようだった。
なにもしてくれない忍田に、がまんができなくなって、太刀川は、しのださん、と呼んだ。しのださん、ねえ、はやく、べろちょうだい。口をぱかりとあけて、そうねだる。おれ、しのださんのべろ、にがくてもへいき。忍田が苦笑して、そういう問題じゃない、と言う。おまえのからだに悪いかもしれない、そう言って、目じりにくちびるをおしあてては、長い指で、首筋や、おなかのあたりの、くすぐったくて、ぞくぞくするところをさぐってくる。
太刀川は、なんだか、納得がいかなかった。だって、いままでずっと、太刀川は、忍田のにがい舌を食べてきたのに、からだにわるいだなんて、そんなの、いまさらじゃないか。忍田は、こっそり吸っていたたばこもぜんぶやめて、捨ててしまった。これから忍田の舌は、にがくなくなっていくばっかりだ。だったら、べつに、いいじゃないか、太刀川は、そう思う。
けれども、忍田が、太刀川のことを大切だという態度をみせてくれるのは、まったくわるい気分ではなかった。忍田が、太刀川のことを、心配してくれるのも。たぶん忍田の口のなかがにがくなくなるまで、忍田が太刀川の口に舌をくれないだろうことは、まったく、よくないことだったけれども、それでも、そうしてくれるのはきっと、忍田が、太刀川が忍田のことを好きなのとおなじくらいに、太刀川のことを好きでいてくれているからだと思えるから、やっぱり、ぜんぜん、わるい気分ではない。
しのださん、おれのこと、すき?
忍田は、太刀川から顔を離して、太刀川の目を見て、すこしのあいだ、きょとんとしていた。そうして、だんだん理解していったふうに、笑って、こう言った。
おまえを愛しているよ。