わんなうとしのだ

 真夜中、公園内の木製のベンチに腰掛けて、林藤はゆっくりとため息をつく。孤月を杖のように地面に立てて、柄頭に手のひらを重ね、あごを乗せた。無理があったし、痛かったので、すぐにやめた。ひまだなー、とつぶやくが、隣に座った忍田からの返事はない。
 林藤は現在、同僚の忍田とともに、哨戒任務についている。現在近界の詳細不明国家が近接中、その国家が派遣するかもしれない『トリオン兵』の出現を警戒し、出現を確認しだい即座に殲滅、という、非常に大ざっぱで重大な任務だ。世間ではいまだ、『トリオン兵』なるものも、それをトリガー使いが殲滅しているという事実も、ほとんど認知されていない。政府や企業や、その他もろもろの支援もなにも受けていない、単なるトリガー使いの集団である林藤たちは、いまのところ、個人の技量にたよって、大ざっぱに、重大な任務をこなすしかない。
 トリガーの数もトリガー使いの数もまだ少ない現在、本来ならば、林藤と忍田のような、戦闘になれたトリガー使い同士が組んで哨戒にあたるというのは、非常に非効率的であるのだが、それには理由があった。
「しずかなもんだなー」
 林藤がふたたび、話しかけるでもなくつぶやくが、忍田はだまりこんだままだった。レーダーでの索敵に集中しているのだろう、腕を組んで目を閉じたまま、微動だにしない。これで居眠りぶっこいてるんだったらうけるな、と林藤は思う。
 オペレーターは絶対的に不足している、というより、そもそもの人員が不足していて、オペレーターに人員を割く余裕がないため、多少戦闘になれたトリガー使いであれば、アタッカーであろうがガンナーであろうが、広域索敵用のトリガーはかならずトリガーホルダーに入れている。当然、林藤も忍田も入れていて、現在も起動しているが、忍田はどうにもこのたぐいのトリガーが得手でないらしく、林藤がてきとうにおしゃべりでもしながらこなせる広域索敵を、こうも集中していないとこなせない。
 あたりはすべてが死に絶えたようにしずかで、相方はむっつりとだまりこんでおり、現状、なにもすることがない。
 もういちど、ひまだなー、とつぶやく代わりに、林藤は、ふところからこっそり煙草の箱を取り出した。トリガーを起動するまえに床においておき、起動したのちに拾う、という多少の手間をかけて持ち込んだ煙草だ。ふつうにトリガーを起動すれば、実体のふところにおさめられた煙草は実体とともにトリガー内に収納されてしまう。ライターは煙草の箱に入れているのでぬかりはない。
 一本取り出して、口にくわえようとしたところで、林藤の手首をはげしい衝撃が襲った。トリオン体なので痛みはほとんどなかったが、林藤は思わずギャッと叫んで、煙草を地面に落とした。
「吸うな」
 そう言って、忍田は険呑な目で林藤をにらんだ。林藤はおお痛えと手首をさすりながら、一本ぐらいいいだろ、と言ってはみたが、忍田の目つきがよけいに険しくなっただけだった。
「いま、ここで、吸うな」
 念を押すように、低く小言を言われる。それに対して、林藤がなにかを言うまえに、忍田がなにかに気づいたように背後をふりかえった。忍田の向こう、ちいさい影が、忍田のわずかな動きでくずれたようにずるりとすべり落ちる。忍田はため息をついて、影に手をのばし、揺さぶった。
「……慶、起きなさい」
 忍田の言葉と動きに反応して、もじゃもじゃの頭が持ち上がった。もじゃもじゃ頭の下にある顔は、いかにもねむそうで、まぶたはなんとかこじ開けているようだが、いまにもくっついてしまいそうだ。ちいさい手でいっしょうけんめい目をこすって、ねむらないようにしているらしい姿は、どうにもあわれを誘い、寝かせてやれよ、と思わなくもない。しかし、この子どもこそが、林藤・忍田が組んで哨戒任務にあたっている理由なのだから、寝かせてやるわけにもいかなかった。
 子どもは太刀川慶といって、忍田の弟子の見習いトリガー使いだ。忍田は「いずれだれよりも強くなる」と言ってはばからないが、忍田の、おそろしいほどのスパルタを耐え抜いているところを見ると、じっさいそうなるかもしれないな、とも思う。年齢を考えれば早すぎる感のある、哨戒任務への随行も、「まあ、忍田の弟子なら」とゆるくみとめられてしまった。
 ベンチに座って、眠気をすこしでも払うためか足をぶらぶらと揺らしている姿は、おとなしくてゆるいおこさま、と言った風情だが、血も涙もない虎のふたつ名を持つ(ちなみに林藤がつけた)忍田の、情け容赦ない斬撃で首を飛ばされ腹を薙がれて足を落とされても、「しのださん、いまのもっかい、もっかい!」と再戦を要求する太刀川の姿は、さすが忍田の弟子と言わざるを得ない。
 いまは林藤の世代が主力だが、そのうちに太刀川たちの世代が主力になってゆくのだろう。そのころには近界との関係もすこしは改善されていればいいが、それはかなわないことかもしれない。そうなれば、いまはちいさな子どもたちに、いずれ重責を負わせてしまうことになるのだ。しんみりしながら林藤は手に持ったままだった箱から煙草を一本抜いた。
「だから吸うな」
「ギャッ」
 鋭い手刀がふたたび林藤を襲った。これ、実体だったら手首折れてる。そう思うほどの強さで、こんどはつまんでいた一本どころか、箱ごと、地面に落っこちて、中身がすっかりばらまかれた。ついでのように、ライターも。
「おま、おまえな! 痛いんだよ! いいだろ吸わせろ一本くらい!」
「ふざけるな、慶がいる」
 名前を呼ばれたためか、太刀川が、忍田の向こうから「なんか用?」と言いたげに顔をのぞかせた。ねむたげなおこさまが忍田と林藤とを交互にみる。忍田は林藤を見る。
「……トリオン体だし大丈夫だろ」
「いいから吸うな」
 それに、その理屈が通じるなら、トリオン体で煙草なんか吸う必要はないだろう。言いきって、忍田はふたたび目を閉じた。まあ正論だわな、と思いつつも釈然としないまま、身をかがめて煙草を拾いあつめる。
「おまえも吸ってたくせに」
 さしてうまくもなさそうな、むしろ不機嫌そうな顔で、紫煙をもてあそんでいた忍田を最後にみたのが、はっきりいつだったなどとはおぼえていないが、もうだいぶ前のことのはずだ。太刀川を弟子にしてからしばらくして、忍田は煙草を吸わなくなった。ついでに言えば、つきあいが悪くなった。所帯じみた、と言いかえてもいい。なんだ、おまえ、ガキができてまるくなったってか。独身のくせに。
「……もうやめた。教育によくない。まねをされては困る」
 なるほど、と林藤は拾いあつめた煙草から砂をはらいながら、まあ、得心した。煙草なんてものは、なにもないのに、自主的に吸いだすようなものではない。たいがい、先輩だのなんだのが吸っていて、それにあこがれたり、背伸びのために吸いだして、やめられなくなるのがありがちなパターンだ。それを断ち切りたいと、忍田は思っている、らしい。
 林藤は、忍田が太刀川の教育まで考えているらしいことに、感心すると同時に、ぼんやりと危惧をいだいた。こいつ、弟子育てるのに熱中しすぎて、結婚できなさそうだな。たぶん、そのまま口にすれば、よけいなお世話だと言われそうなことを思った。遠回しに、あんまり肩入れしすぎるなよ、と忠告しようとして、
「ええ〜」
 ねむたそうなおこさまが、忍田のひざに上半身を乗り上げるようにして、妙な声をあげた。ふにゃっと笑っていて、じつにたのしそうではある。おとなしく、ききわけよく、おりこうに座っていたおこさまの、突然の乱入に、忍田もおどろいたように目をひらいて太刀川をみている。
「なんだ、どうした、慶」
 もじゃもじゃの頭を撫でながら、忍田が言う。太刀川はよほどねむいのか、まぶたを落としかけたが、首をふって、なんとか持ち直した。
「忍田さん、嘘ついちゃいけないんだあ」
 寝かしつけるつもりなのかと思うほどの手つきで、太刀川の頭を撫でていた忍田の手が、ぴたりと止まる。
「忍田さん、いまもたばこ、吸ってんじゃん」
 おこさまが、幸福なねこのようににひゃにひゃ笑い、その師匠は、顔をおおってうつむいた。
「へー、お弟子くんのまえで煙草吸うのは『きょういく』に悪いからダメだけど? 嘘はついていいんだなあ」
 弱みをにぎったと喜色満面、林藤がおおげさに声に抑揚をつけながら言うと、顔をおおったままの忍田が、なにかうめくような声をもらした。林藤がニヤッと笑い、太刀川が、忍田のひざになついたまま、へにゃっと笑う。
「これは有罪ですなー、慶くん」
「ゆーざいですなー、林藤さん」
 林藤は、吸ってもいいのよ、と煙草を一本、忍田の顔のまえでぷらぷらとふってみる。案の定、予想にたがわず、いまいましげに手ではらわれた。
「慶のそばでは吸っていない」
 往生際がわるい。いつものいさぎよさはどうした。林藤は愉快で仕方がない。ふだんは突っつく隙のない忍田の、稀少なつっこみどころを、もっと、いやというほど突っついて遊んでやろうかと思ったが、さすがに弟子のまえでこれ以上に突っついてしまえば、師匠の面子はまるつぶれだろう。こんどにしよう、こんど。そう決めて、林藤は、とりあえずは、この場では、この話をしめくくることにした。
「鼻のきく弟子がいると、かくしごともできねーな」
 加減せず背中を思いっきり叩き、打たれた手首の復讐をはかりながら、とりあえずはこの話題は終わりにしてやる、と目線をおくる。とりあえずは、という林藤の意思をあやまたず汲みとったらしい忍田は、うらみがましい視線を送ってきたが、自業自得だ。弟子のまえだからと格好つけるのがわるい。あきらめたようにため息をついて、忍田が、ひざのうえに乗った弟子の頭を撫でる。
「慶、……どうしてわかった?」
 痛恨のきわみとでもいうような声音に、林藤は噴き出した。おそらく、こうまで言うのならば、忍田はおのれの喫煙を弟子に知られないために、なんらかの対策を講じたにちがいない。煙草を吸ったあとに自分に消臭剤をふりかけたりしていたのかもしれないし、着替えたりしていたのかもしれない。この男のことだから、はたから見れば、もういっそ禁煙しろと言いたくなるような努力をしていたにちがいないのだ。そのこと自体も愉快と言うにはあまりあるが、それがすっかりちいさな弟子に見とおされていた、というのは、もはや笑いを通り越して、やっぱり笑うしかない。
 太刀川は笑いながら、ええ、だってえ、と妙に間延びした声をあげる。そうして、こう言った。
「忍田さん、いっつもくちんなかにっがいもん」
 そこか、と忍田がうなだれ、林藤は一瞬の間をおいて、強烈な違和感をおぼえた。しのだの、くちの、なかが、にがい。それはそうだ、喫煙していれば、いやでも口のなかには煙草の煙が染みつくわけで、林藤にも、にがいだとか煙草くさいだとか、言われた記憶はある。そう、かつての恋人だとか、恋人だとか、恋人だとかに。
 ちょっと待て。いや、大いに待て。早まるな。止まれ。そのまま動くな。手を頭のうしろにおいて跪け。いや、いやいや、そこまでは言わないが、いや、そこまで言う必要があるような気もする。
「わかった、煙草は完全にやめる。禁煙する」
「待て忍田」
「止めるな林藤」
「いやそこじゃなくて」
「は?」
「えっ?」
「なに〜?」
 顔を見合わせる。忍田と太刀川は、なにを言いだすんだ、とでも言いたげな顔で、林藤を見ている。太刀川はともかく、忍田は、なんというか、多少、あわてるべきではないのか。そもそも、「いっつもくちんなかにがいもん」などと言われた時点で、太刀川の口をふさぐなり、なんなりの、反応を見せるべきではないのか、もし、林藤が想像したとおりのことが、この師弟のあいだでおこなわれているのならば。
 それとも、林藤が妙な深読みをして、下衆な勘ぐりをしているだけで、そういうような、ことはいっさいおこなわれていないのだろうか。いや、だって、口のなかって、おまえ。と思いつつも、どう言いだしていいのかわからずに、林藤はだまりこむしかない。
 そのとき、起動しっぱなしだった広域索敵用トリガーが、反応をとらえた。
「近いな」
 忍田がコートの裾をはらって立ち上がる。
「作戦行動は事前に打ち合わせした通りだ。慶、林藤から離れるな。戦闘行動はいっさい許可しない。わたしたちになにかあれば即座に離脱して本拠へ戻れ」
「太刀川りょうかい」
「林藤は慶と、援護を頼む」
「……林藤了解」
 よし、と言うように頷いて、忍田が駆けだす。林藤は太刀川を脇に抱えてあとにつづいた。忍田に鍛えられているとはいえ、さすがに大人の全速力に問題なくついていけるほどには、太刀川は化け物ではない。
「おれ走れるよ」
 納得いかない、といった顔で、太刀川がくちびるをとがらせる。行き過ぎる街灯にちらちらと照らし出される、その、子どもっぽくやわらかそうな、桃色の肉をちらっと見て、林藤はひたすら、考えすぎ考えすぎとだけ、頭のなかでくりかえすしかなかった。

 考えすぎでなかったことを知らされるのは、数年後のことだ。