Мертвые молчат

 夜半に目を覚ますと隣で寝ていたはずのエドワードがいなかった。イワンは眠い目をしばたいてあいまいにめくれている布団の中に手を差し入れ、わずかにへこんだ枕を撫でる。布団の中はまだ暖かかった。どこへ行ったにしても、そう遠くへは行っていないはずだ。
 イワンは布団から抜け出し、寝室を出て冷え切った廊下を抜け、玄関へたどり着いた。エドワードのくたびれたスニーカーがある。靴箱も調べる、なくなっている靴はひとつもないようだ。エドワードが外へ逃げた三十二回のうち、靴を履かないで逃げたのは二十七回。なのでこれはあまりあてにならない。扉を見ると、鍵もチェーンもきちんとかかったままだった。『砂状化』の能力があればそこらじゅうの壁や床から外に出ることもできるわけだが、二十八回の隠れん坊と三十二回の遁走のうちで、NEXT能力を使ったことはいちどもない。これが六十一回目の正直でないかぎり、エドワードは外へは出ていないのだろう。イワンは安堵の息を吐く。
 イワンは次に風呂場へ向かう。ここでうずくまっていたのが七回。台所に向かう。ここで右手をずたずたにしていたのが五回。鍋やフライパンと一緒にシンク下におさまっていたのが三回。居間に向かう。頭を抱えていたのが二回。カーテンの裏。ここは四回。トイレ。ここは七回。二十九回目の今日、エドワードは新しい隠れ場所を見出したらしい。腕のPDAのライトで部屋を見回し、イワンはわずかな焦燥を得る。大丈夫だ、と自分につぶやく。結局はいつだって、エドワードはイワンのもとへ帰ってきた。息を整えて、ふと気づく。きびすを返して、イワンは寝室へ戻る。
 布団を踏み越えて、奥にある押入れの襖をほそく開く。まだ中のようすはまったくうかがえなかったが、何とはなしにイワンは、いる、と確信した。気配がする。盲点だった。隠れるにはうってつけの場所だが、エドワードはいちどもここへ隠れたことがなかったから。ひざまずき、「エドワード」喉に声をやわらかくためてささやく。返事はなかった。「開けてもいい?」やはり返事はなかった。イワンはPDAを操作してライトの明るさをゆるめ、音を立てないよう注意して襖を横に滑らせた。
「エドワード」
 押入れの奥、客用布団の上でエドワードが窮屈そうに手足を縮めてうずくまっている。淡い光に照らされ、はじめてイワンに気づいたように顔を上げた。硝子球のような虹彩がイワンを見る。二度瞬いて、わずかに、驚いたような表情になった。
「何やってんだよ、おまえ」
 エドワードが、まるでイワンが、イワンのほうが何か奇矯なことをしているとでも言うように怪訝な声を出す。続いていく、言葉自体は正常だった。「今何時だと思ってんだ」「おまえ、朝弱いだろ」「あんま夜更かししてんなよ」イワンは応える。「うん、ごめん」「僕もう寝るからさ」「エドワードも寝ようよ」エドワードが首を横に振る。
「俺、話聞かなきゃなんないから、先に寝てろよ」
「誰の?」
「そこにいるだろ」
 ひざを抱えていた腕を持ち上げ、エドワードがまっすぐに何もない空間を指差す。イワンはその指の先を目で追う。何もない。誰もいない。エドワードが「あ」と声を漏らして指を解き手のひらを上に向け示す所作に変える。「すみません」エドワードがおびえたようにつぶやくのを聞きながら、イワンはエドワードに視線を戻す。
「だれ?」
「ほら、俺が殺しただろ。あの人。おまえも見てたのに忘れたのかよ」
 青ざめた唇から顔をしかめていそうな声を出していながら、エドワードの表情は張り詰めて動かない。一心に空間と壁を硝子球の瞳で見つめている。無機的な瞬きが繰り返されるたび、その表面でぬれた輝きが踊る。イワンは開いた襖に手をかけたまま、頭を低め、わずかにひざを進めた。
「へえ。何話してるの?」
「それがさ、何にも言ってくれねえんだよな。だから待ってんだけど。おまえ、先に寝てろよ」
 エドワードは腕でひざを抱え込んで、ひざがしらにあごを乗せ、わずかに首を傾けて、あの日に殺した人間を見つめている。
 彼女は、前触れなくあらわれる。エドワードはときにはこうして彼女と向かい合い、ときには彼女から逃げ出す。彼女はエドワードに何もしないし何も言わない、"Мертвые молчат"、イワンは小さくつぶやいた。エドワードには聞こえなかっただろうし、聞こえたところで、意味などわからなかっただろう。
「エドワード、今日は帰ってもらおうよ。もう遅いし」
「えっ」
 イワンと死人のあいだで視線をうろつかせ、怯んだように首を縮めた。
「悪いだろ……俺が殺したのに」
「でもさ、女の人を遅くまで引き止めるのはよくないだろ」
「……まだ話聞いてねえし……」
 どんなに待っても、その人は話なんてしてくれないよ。
 言いかけた言葉を舌の上で溶かして、イワンは反対側の押入れの襖を開いた。叱られている子どもそのものの顔をして、エドワードがイワンを見る。「いや」「でも」と口の中で言葉をこね回すエドワードを苦もなく引きずり出して、イワンは押入れに首を突っ込み、ぬるく沈んだ闇に向かって語りかける。
「もう遅いですから」
 首を抜いてまた逆の襖を開く。闇は座するだけで微動だにしない。エドワードはそこから死人が出てくることを信じ恐れて目をそらさない。ぎち、とエドワードの爪が己の右手の傷跡をえぐる。イワンはエドワードの左の手首を取って、右手から引き剥がした。そっと、とはいかない。エドワードの力はまだそれほど弱ってはいない。
「玄関まで送ってくるから、エドワードは寝てなよ」
「俺が行く」
「彼女はお客さんだろ、家主は僕だ」
 眠気をこらえて言うイワンに、エドワードがまた叱られている子どもの顔をする。罪悪感を抱えながら、それを免罪符にして、甘やかされ許されることを期待する子どもの顔。布団へエドワードを押しやって、イワンは立ち上がる。「こっちです」、声をかけながら進んでいく。部屋を抜け、廊下を抜け、鍵とチェーンをはずして玄関の扉を開いた。「またどうぞ」扉を閉じてまた鍵とチェーンをかける。
 寝室へ戻ると、エドワードは布団の上に座っていた。戻ってきたイワンを見上げて不思議そうに言う。
「俺、おまえも殺そうとしたよな?」
 何のてらいもない口調に笑って、ぬるくなった布団にもぐり込みながらイワンは肯んじた。
「そうだね」
 緩慢な瞬きを繰り返し、エドワードが首をかしげる。
「何でしたんだろうな」
「僕がひどいことしたからじゃない」
「おまえは悪くないよ」
「だったらエドワードも悪くないよ」
「いや、俺は悪いだろ」
「だったら僕も悪いんじゃないかな」
 イワンは言葉を処理しかねているらしいエドワードを自分の布団に引きずりこんで、冷えた体を抱きしめた。冷えた唇に口付ける。まだ考え込んでいるのか、応える舌の動きはうつろだった。ぼんやりとしたキスを終えて、イワンは言う。
「エドワードが悪いんだったら僕も悪いし、僕が悪くないんだったらエドワードも悪くないよ」
 胸もとにもぐりこむようにして寝る体勢に入ると、エドワードの右手がイワンの背を叩いた。二度、三度、赤ん坊を寝かしつけるように。限界だったイワンの意識はゆっくりと眠りに飲まれていく。ことんと落ちる直前に、「ちがう」と聞こえた。
 ああ、またか。

***

 ざわざわと頭の上でねずみが駆け回っているような感覚に、イワンは身を縮めた。暖かさとやわらかさが心地いい。ふたたび弛緩していく体から、ぬるい皮膜が引き剥がされる。冷えた空気の理不尽さに悶えていると、わき腹にかたいものがねじ込まれた。強く圧迫される。耐え兼ねて目を開けば見慣れた赤毛がこちらを見下ろしていた。持ち上がった顎の角度、しかめられた目と眉、紺色のエプロンの胸の前で組まれた腕が不機嫌を主張している。ついでにいうなら、イワンのわき腹に食い込んだかかともだ。
「おはよう」
「……おはよう」
 まだゆらゆらしているイワンをいちど小突き、「冷めるから早く来いよ」とエドワードは寝室を出て行った。なかなか開かないまぶたを何度も閉じたり開いたりして、心地よい布団へ戻りたいという抗いがたい誘惑と戦ってから、イワンは食卓へ向かう。
 ご飯と味噌汁、だしまき卵とに焼き魚と、おひたし。並べられた日本風の朝食に、イワンは毎朝ちょっと感動している。これをエドワードが作ったんだなあ、と思うと感慨深いものがある。イワンがTVを見ながらふと言った「こういう朝ごはん食べたい」のひと言で、エドワードは図書館とインターネットを最大限に活用して、簡単な和食をおおよそ習得してしまった。エドワードに言わせれば「ハウスキーピングの一環」らしいが、イワンは「僕ってとっても愛されてる」とめずらしく前向きに受け止めている。
 敬意を表し、正座して手のひらを合わせ「いただきます」と言ってイワンは箸を使い食べ始める。エドワードはイワンとは違うメニューの前で両手を組んで長い食前の祈りをつぶやいていた。ようやく食べ始めるころには、きつね色に焼けたトーストもオムレツとベーコンもインスタントのスープもだいぶ冷めている。
「お祈り長いよね」
「あー。俺堅信してねえししなくていいんだけどさー、しねえと食った気にならねえんだよ」
「大変だなあ。僕のとこはほら、僕がNEXTだから破門されちゃって、そういうのなかったよ」
「……そっちのほうが大変じゃねえ?」
「父さんと母さんは大変だったろうけど、僕はべつに」
「そんなもんか」
 あまり納得していないような声でそう言いながら、エドワードがミルクの入った白いマグに手を伸ばす。右手。危ないと思ったのはぎこちない指からマグがすべり落ちる一瞬前だった。「うわっ!」悲鳴じみた声と畳にぶつかる音は同時で、水音がそれに続いた。「あーあーあーあー……」エドワードは食べていたトーストを皿の上に放り出し、食卓に乗っていた布巾でミルクをぬぐいはじめる。
「大丈夫?」
 箸を置いて食卓の下を覗き込むと、向こうでエドワードがぬれたマグを示しながら「セーフ」と笑っていた。割れてはいなかったようだ。そもそも、そんなことは心配していなかったのだが。中身もそう入ってはいなかったらしく、畳は多少色を変えてはいたものの、布巾であらかたぬぐわれてしまっていた。
 空っぽになったマグを食卓に乗せて、エドワードが手を振ってみては握り、開きと動きを確かめている。ついで手の甲とその付け根にあるぎざぎざの傷跡を撫でて、苦い顔になる。
「まじ不便だなー……俺、何でこんな怪我したんだっけ?」
 エドワードが深い角度で首をかしげる。
「犬に咬まれたんだろ、忘れたの? あんまりかまいすぎて怒らせてさ」
 箸を持ち直し、味噌汁をかき混ぜながらイワンが言う。沈んで浮き上がった具を見ているふりをしながら、目だけをあげて見たエドワードは、いつものようにきっかり二度瞬きをして、納得したように頷いた。
「あー、そーだったそーだった」
 「いや、あの犬、かわいかったから」。エドワードがトーストを食べる合間にぽつぽつと話す、いもしない犬の話をイワンは笑いながら聞く。硝子の上で転んだ。鉄柱が落ちてきた。扉に挟んだ。イワンがでたらめをひとつならべるたび、エドワードの頭の中でいびつな物語が生まれる。ただ、「レティクル座からやってきた宇宙人が地球人NEXTのサンプルとして腕をもごうとした」というたわごとすら信じるだろうエドワードは、ほんとうの話だけはいつも信じない。

 エドワードがはじめて自分の右手をずたずたにした夜、隠れん坊と遁走の始まりの夜に、エドワードは言った。「あのひとがいる」、「銃がどうしても手から離れない」。狂乱するわけでもなく興奮するわけでもなく淡々と、途方にくれたようにそう言い、血だまりに倒れた。
 翌日、病院のベッドで目を覚ましたエドワードは、包帯まみれの自分の右腕と傍らに座ったイワンを見比べ、不思議そうな顔をした。「何だこれ」、イワンが昨晩のことを説明しても、気のない相槌を繰り返して聞き終えたあと、「で、俺何でこんな怪我したんだっけ?」と首を傾けた。深く。七度まったく同じやり取りを繰り返して、とうとうイワンはうそをついた。割れたガラスの上で転んだんだよ。エドワードは二度まばたきをして、「ああ、そうだった」と、ありもしない記憶を思い出し、納得した。
 それから、逃げ出したり隠れたりを繰り返すあいまに四回同じことをして、エドワードの右手はミルクを満たしたマグを持つ力を、あるいはまぼろしの銃の引き金を引く力を失った。それで安心したのか、エドワードはそれから己の右手を傷つけていない。

 イワンは手をのばして、エドワードの右手に触れた。ひきつれた傷跡を指先でなぞる。役立たずの腕になっちまった、とエドワードは、苦く笑いながら言った。エドワードがそう望んだんじゃないか、と、イワンは言わない。あまり動かすことのなくなった腕は、すこし細くなったようだった。血行も悪いせいで、冷たく、頼りない腕だ。腹の底がざわめく。そのざわめきのままに、イワンは、大丈夫だよ、と手に力を込める。
「エドワードは、僕がずっと守るから」
 イワンがそう告げると、エドワードはゆるやかに四回まばたきをして、暁いろをした瞳でイワンを無感情に見据えた。そして、ほとんど口を動かさないままに言った。
「何から?」
 眠りの間際に聞いた、「ちがう」という言葉がよみがえった。こうやってエドワードはいつも、ぎりぎりのところでイワンを、共犯者にも庇護者にもしてくれない。離れていくことをしないくせに、いつでも帰ってくるくせに、イワンが許すことを当然とすがっているくせに、そうやって、さもひとりで抱え込んでいるようなふりをするのは、たいした欺瞞だと思う。
 正気づいたようなエドワードの目をみつめながら、イワンは己の声を聞いた。言えばいい、あのときの強盗にも、動かなかった警察にも、殺された人質、無謀にも飛び込んでいったエドワードにさえ、僕は感謝していると。狂気に転がり落ちて、エドワードの手を引けばいい。それでこそ共犯者だ。それでこそ、庇護者だろう。
 それができないのは、おそろしいからだ。ひとの死に、殺したことに、殺されたことに、感謝している己がおそろしい、それを肯定する己は、なおいっそうおそろしかった。おそれが正気を、そしてイワンを押しとどめている。
 エドワードはいつも、ぎりぎりのところで、イワンを共犯者にも庇護者にもしてくれない。けれど、エドワードから見れば、イワンはいつも、ぎりぎりのところで、エドワードの共犯者にも庇護者にもなってくれはしない、というふうに見えるのかもしれない。そう考えるとばかばかしかった。狂気のふちにふたりして立って、相手が飛び降りて自分の手を引いてくれないものか、あるいはなにかの間違いで己の足もとが崩れてくれないかと願っているというわけだ。
 あいまいでいびつな笑いを浮かべ、イワンは言う。
「犬からかな」
「お、頼もしー」
 無理すんなよ、と言って笑うエドワードは、どこかできっと失望している。けれどそれはイワンもおなじことだ。エドワードはまたあの女性と向き合い、逃げ出すだろう。イワンは、あの女性を追い返し、ふたたび招くだろう。死者と罪と狂気とをもてあそんで、いったい、どこへたどりつこうと言うのだろうか。いや、そもそも、たどりつく場所などあるのか。
 延々とおなじ場所で足踏みをくりかえす、停滞と倦怠に、イワンはゆっくり息を吐いた。