Я в порядке.

 長方形の便箋、その一角を、対角線上にぴったりと合わせる。はみ出した部分をはさみで切り落とすと、多少いびつながらも正方形の完成だ。それをゆっくりと丁寧に、折りたたんでゆく。横に、斜めに、山折り、谷折り。何も記されず真っ白い便箋、こんども書き送ることができるような特別なことが、何もなかった。ぼくは何も変わってない、とイワンは思う。飛行機に乗って、森も山も川も海も、国境線すら越えてここへ来たのに、ぼくは何も変わらない。この便箋みたいに、真っ白で、空っぽだ、と。

 イワンは、一年前に祖国をはなれてシュテルンビルトのヒーローアカデミーに入学した。べつにヒーローになりたいと思ったわけではないし、なれるとも思わない。実際、世界中からNEXTが集まってきているこのヒーローアカデミーの学生たちのなかでも、ヒーローとしてデビューできるのはひとにぎりにも満たない。そんなものに自分が引っ掛かるわけがない、とイワンはわかっている。
 それでもイワンやほかのNEXTたちがヒーローアカデミーにやってくるのは、シュテルンビルトがNEXTに対して寛容な都市であり、また、ヒーローアカデミーの卒業証があれば、たとえNEXTであっても一般人に準じた扱いが受けられるからだった。シュテルンビルトにNEXT差別がないとは言えない。けれども、他都市、他国に比べれば雲泥の差だ。イワンの祖国では、NEXTは外出時にGPSつきのカードを首から下げることが義務で、違反すれば理由の如何にかかわらず投獄された。法で定められていたわけではなかったが、学校からは入学許可がもらえないのがあたりまえで、イワンはインターネットの通信学習で義務教育を終えた。べつにイワンの祖国が特別にNEXTに厳しいわけではない。ほかの国も多少の違いはあれど似たようなもので、みんなNEXTが怖いのだった。
 そんなふうに、学校へも通えず、家からほとんど出られないような環境から、シュテルンビルトへイワンを送り出してくれたのは両親だ。おまえはシュテルンビルトへ行って、ヒーローアカデミーに入学するんだ、そこで生きていきなさい、そう言われたとき、胸にひろがった不安の中に、かすかな期待があった。シュテルンビルトにはNEXTがたくさんいる。ヒーローアカデミーはむろんのことだ。ネットで見たヒーローTVにうつるような華やかなNEXTだけじゃなく、きっと、イワンのようなNEXTもたくさんいるはずだ。きっと、そこで、何かが変わる。そう思った。
 そして、何も変わらなかった。
 祖国で空っぽだったイワンはシュテルンビルトでも空っぽのままで、こうやって寮の一室で、はるか遠くの両親への週に一回の手紙にさえ、何も書き送ることがないのだ。

 いくつか折り終えてぼんやりしているイワンの背後で、ドアが開く音がした。振り向くと、燃えるような赤毛がのぞいている。まだ廊下にいる友人たちに何か言っているらしく、楽しそうな笑い声が聞こえ、そしてドアが閉じる音が響いた。
「おかえり、エドワード」
 イワンが声をかけると、エドワードは上機嫌に、おう、と応じて荷物を自分のベッドに投げた。ついでにエドワード自身もベッドにダイブして、荷物の中から雑誌を引っ張り出している。今月号のマンスリーヒーローだ。
「買ってきたの?」
「あー。おまえも見る? 明日の昼にはヒューに回さなきゃなんねえけど」
 もぞもぞと居心地のいい位置を探しながら、エドワードが言う。ヒューというのは、エドワードの友達のことだ。明るくて社交的なエドワードには友達が多い。
 イワンは首を横にふった。
「ぼくはいいや」
「そっか」
 それきりエドワードは黙った。イワンは机の上に意識をもどす。鶴、花、鳥、風船、手裏剣。真っ白な便箋から作られたものたちをぼんやり並べて、小さなメッセージカードにひと言だけ書き添えた。
 Я в порядке.
 それしか伝えられることがない。情けない、何も変わらない自分にため息が出る。肩を落として、封筒を出そうと引き出しを探ったとき、頭の上にぎゅっと重みが加わった。ついでに肩にも。
「なんて書いてあんだこれ」
 声が頭の上からして、言葉のたびに振動がつたわる。頭の上に顎を乗せられているのだった。肩の上には肘を。どけよ、と頭を振ろうとするのをやんわり押さえられ、目の前にメッセージカードがかざされた。”Я в порядке.” それだけしか書けなかったメッセージ。
「……ぼくは元気です、って」
「そんだけ? 何かもっと書けよ」
「うるさいなあ。雑誌、回さなきゃいけないんだろ? 早く読んだら」
「明日の昼までだからいーんだよ」
 エドワードがメッセージカードを机に戻し、イワンから離れてとなりにある自分の机に腰かけた。重みが消えてほっとする。その反面、急に寒くなったような気がしてしまう。
「手紙、そんだけじゃ余計心配するんじゃねえの」
「他に何も書くことがないんだよ」
「あるだろ。俺のこととか書けよ。『エドワードって言うすっげえすっげえかっこいい友達ができました、死ぬほどクールで彼ならヒーロー確実、彼のおかげでぼくもなんだかヒーローになれそうな気がしてきました、ぼくの活躍をヒーローTVで見られる日を楽しみにしててください!』とか」
「嘘ばっかりじゃん……」
「何だとこのやろう」
 肩を揺らして笑いながら、エドワードが脚を延ばしてイワンの座っている椅子を蹴ってくる。エドワードの笑顔に、イワンはなんだか救われるような気分がして、前半はともかく、と言う言葉を飲み込んだことを少し後悔した。エドワードは間違いなく、『すっげえすっげえかっこいい』し、『死ぬほどクールでヒーロー確実』だ。
 エドワードは、ヒーローアカデミーに入学したイワンに初めてできた、いまに至るまで唯一の友達だ。英語がうまく話せず、聞き取れずにひたすら委縮しているイワンに、根気よく言葉をかけてくれて、話を聞いてくれ、筆談に頼ろうとするイワンを叱って、とにかく喋ればなんか通じる、と励ましてくれた。このことにかぎらず、何ごとにも後ろ向きなイワンの首根っこをつかんで前を見るように叱咤してくれる。もしエドワードと出会えなかったら、イワンはきっと、シュテルンビルトに居場所を見いだせず、祖国に逃げ帰ることもできずにつらい日々を送ることになっていたのに違いなかった。ぼくは大丈夫です、なんて情けないひと言すら、両親に書き送ることができなかったはずだ。
 ふっと、影がさすようにイワンは思う。――なんでエドワードは、ぼくなんかの友達をやってくれるんだろう、エドワードは頭がいいし、運動もできる、NEXT能力もぼくらの学年では随一といっていい、何より、ぼくは、ぼくの生きるためだけにここへ来たけれど、エドワードはひとを助けるヒーローになることを志している、ほんとうに、なんで、ぼくなんかの、そこまで考えたところで、頭を叩かれた。はっとイワンが我に返ると、エドワードが手をひらひらさせながら、あきれたような胡乱なまなざしでイワンを見ていた。
「おまえさあ、その後ろ向きなのどうにかしたほうがいいぜ」
「べ、別に……」
「そんなこと考えてないって? 嘘つくなよ。わかんだから」
「何でだよ」
「わかんだよ、もろ『ぼくなんかあ〜』、『どうせぼくはあ〜』って顔してんだよ」
 自分の目じりを指で下に引っ張りながら情けない顔を作って、エドワードは言う。むっとしながらも言い返せずに、イワンは気まずく顔を逸らせて黙った。しばらくいやな沈黙が落ちる。
 あきれたような、許容するようなため息をついて、沈黙を破ったのはエドワードだった。
「これなに」
 エドワードの指が、イワンの机の上の折り鶴をつまむ。軽くなった空気にほっとしながら、イワンが答える。
「折り紙だよ。カードと一緒に送ろうと思って」
「ふーん……」
 エドワードの手のひらの上で、折り鶴がころころと転がる。感心しているようすに、イワンは面映ゆいような気分になった。まだ祖国にいたころにネットで知った『折り紙』は、イワンの好きなもののひとつだ。はじめは紙をくしゃくしゃにするだけで終わっていたけれど、いまでは何も見ずに折れるものが両手の指の数でも足りないほどになっている。
「ちょっとやってみろよ」
「え、何を?」
「これ。作ってるとこ見せろ」
「ええ」
「ええぇ〜じゃなくて」
 ほら、と言いながらエドワードがひらいたままの便箋の綴りをイワンへ押しやる。罫線が見えていたのでこの紙だとわかったのだろう。イワンは少しのあいだ、ためらった。失敗しそうな気がした。もたもたしてしまいそうだったし、何か手順を飛ばしてしまいそうだとも思った。けれども結局は、
「……わかった」
 頷いた。
 エドワードが帰ってくる前にしていたのと同じように、イワンは、便箋を一枚折って破り、正方形を作った。そうして黙々と折っていく。機械に切り取られて鋭利な角と、イワンに破り取られて毛羽だった角とを合わせるときが、ずれてしまいそうでいちばん緊張した。エドワードは真剣に、というにはややゆるいまなざしをイワンの指先にそそいでいる。なるべく何も考えないようにしながら、イワンは鶴を折りあげた。きれいに折れたほうを尻尾と決め、もう一方を頭と決めて折り曲げる。できたよ。イワンが言うと、エドワードは感嘆とも何ともつかないような声をあげた。
「すっげ。まじで紙なんだ」
「紙だよ」
「四角けりゃできんの?」
「小さすぎると無理だけど」
「へえ、すげえな。この花とかも、全部?」
「そうだよ」
 二羽の鶴をそれぞれ手に持って、見比べながらエドワードはしきりに感心していた。花と鳥に目をやって、同じ紙なんだ、と不思議なものを見るようにしている。
「なんか、オリガミっておまえみたいだな」
 唐突な言葉に、イワンは意味を飲み込めずに目をまたたかせた。エドワードは笑って続ける。
「同じもんがさ、いろんなのに変わるだろ。おまえのNEXTみたいじゃん」
 その思いつきが気に入ったのか、エドワードはとても満足そうだった。オリガミ、オリガミ、と音をたしかめるようにつぶやいて、
「おまえのヒーロー名さ、オリガミなんとかとかなんとかオリガミとかにすりゃいーんじゃね」
 言われて、イワンは苦笑する。自分のヒーロー名を考える、というのは、アカデミーの中でよく行われる遊びだ。自分のNEXTにちなんでいて、それでいてカッコイイもの。友達には間抜けなヒーロー名を押し付けたり、そんな遊びをしている生徒たちの声を、イワンは聞くばかりだったけれど。
「なんとかってなに」
「そこはおまえが考えるとこ」
 おどけたように言うエドワードに、イワンは笑った。ヒーローになれるわけがないイワンのヒーロー名だなんて、ばかばかしいにもほどがあるけれど、オリガミ、確かにぴったりかもしれない。鶴になっても飛べず、花になっても香らない。所詮は、結局は、ほんものじゃなくて、ただの薄っぺらくて真っ白の、紙きれでしかない。
「おまえさ、よく俺のことすごいっていうけど。おまえだってすごいんだからな。もっと自信もてよ」
 真摯な目をして、エドワードが言う。さっきイワンが黙り込んで終わらせてしまった話の続きだ。エドワードはイワンがすぐに自己卑下に走ることをよく思っていない。そういうそぶりを見せると、あきれて、不機嫌になる。それでも、おまえなあ、と諭すように言い聞かせてくれるエドワードの言葉は、とてもやさしい。やさしい、嘘だとイワンは思っている。
 その言葉だけで十分だ、と、そう口にしたら、きっとエドワードはまたあきれるのだろうけれど。ぼくにはヒーローがいる、ぼくを救ってくれるひとがいる。それだけでほんとうに充分だ。ぼくはぼくだけで精いっぱいで、エドワードのように誰かを気遣って、救うだなんてことは、考えるだにおこがましい。ヒーローだなんて、そんな資格はぼくにはない。
「がんばるよ」
 自分がどういう顔をしてそう言ったのか、イワンにはわからなかったけれど、エドワードが納得したように頷いたのでそれでよかったのだと思うことにした。エドワードは鶴を一羽返し、一羽は持ったまま自分のベッドにもどっていく。やるとは言わなかったが、エドワードのために折ったものだから、イワンは何も言わずにいた。そして、引き出しから封筒を取り出し、宛先を書く。書きながら、ふと、未来の自分を想った。
 きっと、数年後にここを卒業するときにも、イワンは真っ白で空っぽのままだろう。どこで働けるのかもわからない。けれど、ひとつだけ確かなことがある。イワンは、どこかの小さな店で、一枚のヒーローカードを買って、それを財布にしまいこむ。大切に。それは、真っ白で空っぽのイワンが、両親への手紙にひと言を書き送るための手助けをしてくれる。

 Я в порядке.

 それがきっと、ぼくのしあわせなんだろう。