イワンわんとにゃんワード

 耳慣れた声が聞こえ、イワンは頭を持ち上げた。ふわふわの毛に半ば埋もれた耳をぴんと立てる。にゃあ、にゃあ。間違いない、彼だ。イワンはぴょんとひとつ飛び上がって伏せていた体を起こし、すべるような動きですばやく窓へ向かう。
「どうしたんですか、先輩?」
 お気に入りのクッションの上でおとなしくしていたイワンが急に動き出したことにおどろいたのか、バーナビーが読んでいた本を置いて歩み寄ってきた。レースカーテンに絡まりながらきゅんきゅんと鳴く白い犬をバーナビーは、自分よりも先にこの家にいたという理由で『先輩』と呼ぶ。
 イワンはバーナビーが窓を開けてくれることを期待したが、「カーテンで遊んじゃだめですよ、先輩」と持ち上げられ、窓から引き離されてしまった。ちがうんです、バーナビーさん、僕遊んでるんじゃないんです。きゅんきゅん鳴きながら身をよじって抵抗する。にゃあ、とまた声が聞こえた。少しいらだったような声だ。あんまり待たせてしまうと、彼はイワンをほうってどこかへ行ってしまうかもしれない。いままで一度だってそんなことはなかったけれど、イワンは不安になる。窓開けてくださいバーナビーさんはやく、窓。けれども、バーナビーは普段忙しく、平日でも休日でも、昼さがりのこの時間に家でのんびりしていることがない。だから、バーナビーは知らないのだ。
「おともだちが来たんだよ」
 天の声、思わずイワンはきゃんと吠えた。黄色いトラックスーツに包まれた細い腕が伸びて、イワンが絡まったレースカーテンをかき分ける。窓の向こうには赤毛の猫がいた。青々と伸びすぎている芝生のなかに座り、長いしっぽをゆらゆらさせている。鋭い目は用心深くバーナビーと、カーテンを開けたパオリンを見つめていた。エドワードだ! イワンはバーナビーの手から抜け出して床に飛び降り、窓硝子にごつんとぶつかって鼻模様をスタンプした。めげずに鼻をぺったり張り付けて、窓の桟をカリカリと爪で引っかいて訴える。はやくあけてください。
「おともだち?」
 バーナビーが硝子越しに赤い猫を不審げに見返してからパオリンに問う。
「そうだよ、イワンさんのおともだち」
「猫ですよ」
「猫だよ。イワンさん、開けてあげるから下がって」
 パオリンがイワンをさがらせながら窓に手をかける。期待にイワンのしっぽがぶんぶん揺れた。しかし、イワンが通れるほどの隙間が開く前に、バーナビーが窓をおさえた。パオリンは目をまるくし、急に動きを止めた窓にイワンはおどろいてきょろきょろする。バーナビーは渋面をつくり、言う。
「……野良でしょう、あれ」
「うん」
「先輩によくないんじゃないですか。ノミとか、病気とか。うつされますよ」
「うつるんだったらもううつってるんじゃないかな」
「よくないですよ、野良と遊ばせるなんて。どこで何してるかわからないのに」
 イワンは、バーナビーとパオリンが話し合っているあいだにも、ほんの少しのすきまに鼻面を突っ込んでどうにか通ろうとする。ぐいぐい押し込む。顔が引っかかってにっちもさっちも行かなくなる。エドワード、手伝ってよ。きゅうきゅう鳴いてみるけれども、エドワードはバーナビーとパオリンを警戒して近づいてこない。早く来いよ、と怒ったように鳴いて、イワンをにらむだけだ。
 そのようすをみたパオリンは、眉をしかめてバーナビーに言う。
「ほら、ふたりとも一緒に遊びたいんだよ。かわいそうだよ」
 バーナビーが「しかし」と言い返すよりも先に、パオリンは思いっきり窓を開いた。イワンはつんのめって鼻から庭に落ちる。革の首輪にくっつけられたタグがちりんと鳴った。「意地悪はだめだよバーナビー」、「僕は意地悪で言っているんじゃありません」、ふたりの声を聞きながらころんと一回転してそのまま駆けて、エドワードの手前でブレーキをかけた。赤くてなめらかな毛が生えたエドワードの首筋に頭を擦り付ける。けれども、訪ねてきてくれた『おともだち』に喜色満面のイワンとは違って、エドワードは警戒をあらわにした目でじっとパオリンとバーナビーを見つめていた。
「エドワード、おなかすいてない?」
「あの男だれだ?」
 頭を低く下げながらエドワードが言う。僕が先に訊いたのに。うらめしく思いながらもイワンは答える。
「バーナビーさん。僕の家のひとだけど、そういえばエドワードは会ったことなかったね」
「ふうん。変な髪」
 馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、ようやくエドワードはイワンの耳ちかくに額を擦り付けて挨拶をした。そのまま勢いで二匹は絡まりあって上になり下になりひんやりした芝生のうえをころころ転がる。おどろいた虫たちがぴょんぴょん飛ぶ。イワンがエドワードの前足やら肩のあたりを甘噛みすると、エドワードはイワンのうなじのふわふわした毛をざらつくの舌で舐めてくれた。同じ色をした瞳がかち合っては笑い、うるるる、と音を鳴らす喉のやわらかい毛に鼻を擦り付ける。イワンの知らない、遠くのにおいがする気がした。

 エドワードは、イワンの『おともだち』だが、『いのちのおんじん』でもある。散歩中にリードを振り切り迷子になってしまったイワンを、この家まで案内してくれたのがエドワードだった。それをきっかけに仲良くなって、エドワードはときどきイワンのいる鏑木家へ顔を出してくれる。
 エドワードはこのあたりに住んでいるのらねこで、イワンの知らない外の世界のことをたくさん知っている。車より大きい動物の話だとか、すごく塩辛い水たまりの話だとか、鳥でも虫でもないのに空を飛ぶものの話だとか。わからない言葉が出てくるたびにいちいち質問しても、うるさがらずに教えてくれる。それでもよくわからない話も多いけれど、エドワードがそれを話すというだけでイワンには、なんだかすてきなことのように思えてくるのだ。

 普段は互いの気が済むまでごろごろ転がったあとにはたいがい追いかけっこが始まる。けれど、きょうのエドワードははやばやと日向ぼっこをしながらの昼寝に移行してしまった。日当たりのいいところにイワンをうつぶせさせてそのうえに陣取り、まっしろの額にあごを乗せ、くるるるる、とゆるやかに喉を鳴らしている。ふりそそぐやわらかい日差しはエドワードの背中がひとり占めしているが、そのことはイワンはあまり気にしていない。
 それよりもイワンが気になるのは、きょうはまだ何も話してもらっていないし、ぜんぜん遊んでいない、ということだった。芝生にほとんど顔を埋めながらイワンは思う。もう眠り始めているだろうエドワードを起こしたいわけではない、けれど、起きたらすぐにどこかへ行ってしまうくせに、そうしたらどんなに短くてもあしたまではイワンのところに来てくれないくせに、もう眠ってしまうつもりらしいエドワードが、イワンには恨めしい。
 ――何か大きな音がしたりとか、おいしいものが急に出てきたりとか、おもしろいものが転がってきたりして、エドワードが起きてくれないかな。それで、追いかけっこか、外の話か、してくれないかな。起こしたい、わけじゃないけど。
 悶々と考えているイワンの鼻を、エドワードの前足がぺちりと叩いた。
「寝れねーよ」
「……静かにしてるじゃん」
「気配がうるせえもん」
 くあ、とあくびをして、エドワードは遊びのようにイワンの鼻筋をぺちぺち叩く。爪を出していないし当たるのはやわらかい肉球だから痛くはない。ただ、目のすぐ近くに前足が見えるのと、鼻をたたかれるむずがゆさに目が勝手に開いたり閉じたりする。
「じゃあ静かにしてるから、寝ていいよ」
「いいや。ちょっと目え覚めた」
 イワンのしっぽがぱたっと振れる。エドワードはイワンのうえから動くようすはないので、追いかけっこはしないのだろうけれど、話はしてくれるようだった。待ち遠しさにイワンの白いしっぽが揺れ、それをとどめるように赤いしっぽが巻きついた。それでもしっぽはぱたぱた動く。エドワードがイワンのまぶたをざらりと舐める。
「おまえって鬱陶しいよなあ」
「ウットウシイってなに?」
「かまってやりたくなるなあってこと」
 眠たげなエドワードの言葉にイワンは得心して、じゃあ僕はがんばってもっとウットウシイになろう、とひそかに固く決意した。
 エドワードはイワンのうえでもぞもぞと身じろぎしたあと、もういちどあくびをして、すこしだけ眠気を払った声で言う。
「この街にいま、船が来てるんだ。知ってるか?」
 イワンは答える。
「知らないよ。フネってなに?」
「人間とか荷物とかいっぱい乗っけて動く乗り物だよ」
「車とどう違うの?」
 車ならイワンも知っている。ブリーダーの家からこの家へ来るときに、ずいぶん長い時間、乗ったことがあるからだ。寝ても起きても車の中で、もしかして僕のおうちはここになったのかしら、なんて思ったりした。
「車は地面を走るだろ、船は水に浮かんで滑ってくんだ」
 こんな感じ、と頭の上から伸びてきたエドワードの前足がイワンの目の前をすうっと横ぎっていく。エドワードはフネのつもりなのだろうが、イワンにはエドワードの前足にしか見えない。なんとなくイワンは、大きなエドワードの前足に人間がいっぱい乗って、水に浮かんで滑っていくのを想像した。ずいぶん乗りにくそうだし、そんなにたくさん乗れないような気がした。どうして人間はフネに乗るんだろう。イワンは首をかしげる。乗っているエドワードの首も一緒にかたむく。
「なんでフネで行くのかな。車で行けばいいのに」
「そんなんじゃおっつかないくらい遠くに行くためだろ」
 へえ、と言いはしたもののイワンには、『そんなんじゃおっつかないくらい遠く』がどのくらい『遠く』なのかよくわからない。車だって、すごい速さで動いて、ずいぶん遠くまで行く。フネはもっと遠くに行くのなら、いったいどこまで行ってしまうんだろう。イワンはすこし混乱した。
 エドワードは話を続ける。
「こないだとっつかまえたねずみがさ、船乗りだって言うんだ。船に乗って海越えてあっちこっち行ったって」
 海のことはイワンも知っている。ものすごく大きくて塩辛い水たまりのことだ。何でも、イワンが散歩につれていってもらう公園にある噴水よりもずっと大きいらしい。フネで越えて行かなければならないのが海ならば、それはイワンが思っているよりもずっとずっと広いのだろう。
「海の向こうにはさあ、いろんなとこがあんだって。うまい魚がいるとことか」
 うっとりとエドワードが言い、ぺしぺしとしっぽがイワンのしっぽを叩く。魚かあ、とイワンは考える。イワンの人間のお父さんが魚が好きなので、イワンもときどきご相伴にあずかることがあるのだけれど、あまり好きではなかった。肉のほうがずっとおいしい。
「魚だけ?」
「んー? いや、いろいろあるって言ってた。チーズとかじゃがいもがうまいとことか、花がめちゃめちゃ咲いてるとことか、雪が山ほど降るとことかさ。でもそんなとこ行きたかねーな」
 飲み込もうとしたエドワードの言葉がこつんとイワンのどこかに引っかかる。イワンはぱちりと大きく瞬きした。続けてぱち、ぱち。ついでに耳がぴんと立ってしまって、背中のエドワードが何だよどうしたと文句を言いながらかぷりと噛み付く。あぐあぐと咀嚼するように食まれ、くすぐったかったがそれどころではなかった。
 エドワードは、チーズやじゃがいもがおいしいところや、花が咲いているところ、雪が降るところには『行きたくない』と言った。じゃあ、魚がおいしいところには『行きたい』んだろうか。フネに乗って、車なんかじゃおいつかないくらい遠いところへ、塩からい海の向こうへ、行ってしまうんだろうか。おいしい魚を食べに。
 イワンは飼い犬で、のらねこのエドワードに自分から会いには行けない。イワンはいつも待つばかりだ。エドワードがどこかへ行ってしまったって、探すことも追いかけることもできない。きゅうう、と哀しく喉が鳴る。耳がくたりと倒れてしまう。
「何だよおまえ、なに急に落ち込んでんだよ」
「行かないでよ」
「はあ?」
 エドワードが頭をもたげ、素っ頓狂な声を出す。エドワードからすれば、ついさっきまで上機嫌にしっぽをぱたぱたさせていたイワンがいきなりの急転直下で気分を沈ませて、しかも意味の通じないことを哀しげに言い出したのだからわけのわからなさの極致で思わず喧嘩を売るような声が出てしまったのだが、イワンはその声にいっそう哀しくなった。
 ああ、変なこと言っちゃった。エドワードがあきれてる。もうだめだ。エドワードはきっとこんな僕に会うよりおいしい魚を食べるほうを選ぶだろう。僕はエドワードを見送るしかないんだ。僕はもうエドワードに会えないんだ。エドワードがおいしい魚を食べ飽きて戻ってきてくれない限り。
 ぐすぐすと鼻を鳴らしぷるぷるとひげを揺らすイワンを見ながら、エドワードはため息をついた。イワンはまた、おかしな考えに陥っているらしい。何だ行かないでよって。俺どっかに行くっけ? そんなこと言ったっけ? 考えて、ああ、うまい魚がいるとこか、と合点する。イワンの思考がときどき後ろ向きに思いっきりぶっ飛ぶのにはもう慣れたつもりだったけれど、ここまでぶっ飛ばれるとさすがにあきれてしまう。行ってみたいと行ってくるのあいだにはだいぶ隔たりがあるだろう。しかも行ってみたいとすらはっきり言ってはいないのに。
「おいイワン、」
 勘違いしてんじゃねえよ、行くなんて言ってないだろ。そう続けようとして、エドワードはあることを思いついた。二度、三度頭の中で反芻する。言葉をとめたエドワードに不安を感じたのか、イワンが水っぽい声でエドワードを呼ぶ。エドワードは、ぐっと身を乗り出して言った。
「じゃあおまえも来いよ」
「へ?」
 こんどはイワンが素っ頓狂な声を出す番だった。イワンの額の上に前足を両方乗せて突っ張り、ぐうっと顔を覗き込むエドワードは名案だというふうに笑っている。ちくちくする芝生にさらにあごを沈ませながら、イワンはエドワードを見上げる。
「だから、おまえも来ればいいだろ。一緒に行こうぜ」
 一瞬、イワンは嬉しいと思った。エドワードが、ほかの誰でもないイワンに対して、一緒に行こうと言ってくれたことがこのうえなく嬉しかった。ふわっと浮き上がった心はしかし、ずしんと沈む。行けるわけがない。
「む、無理だよ……僕、行けないよ」
「何で。そりゃおまえは世間知らずの飼い犬だけどさ、そこはちゃんと俺がサポートしてやるって」
 エドワードは明るく言う。けれど、イワンは、無理だよ行けないよ、と思う。イワンは飼い犬で、人間の、お父さんとお母さんとおじいさんとおねえさんと弟と、ふたりの妹がいる。かれらはイワンが船で遠くへ行ってしまったらどうするだろう? また迷子になったのだと思って、イワンを探し回るに違いない。
「だめだよ、みんな心配するし……」
「気にしなくていいだろ、そんなの。これを機におまえものらになっちまえばいいじゃん」
 のらになる。その言葉はイワンをぞっとさせた。のらになれば、エドワードを追いかけていける。エドワードとずっと一緒にいられる。来るか来ないかもわからないエドワードを待っていなくてもいいのだ。けれど、それはこの家と家族とを捨てていくことを意味している。みんな、イワンがいなくなってしまったらどうするだろう、イワンがのらになってしまったら。みんな。考えてイワンはぎゅうと四肢を縮める。
 ほとんど落ち込み始めているイワンとは対照的に、エドワードは上機嫌だった。いつも外の話に目をきらきらさせるイワンに、ほんとうの海や船を見せてやれたら、どんなにすてきだろう。海の向こうに行ったら、どんなに楽しいだろう。いいことばかりが頭に浮かぶ。緩む頬をイワンの首に擦り付けると、革の首輪が当たった。のらになるんだったら、これもいらなくなるな。エドワードは思う。鼻先を首輪に近づけて、言う。
「この首輪は噛み切ったらいいよな」
 イワンはとっさに、毛皮についた水を振り飛ばす要領で思いきり体を振った。そんな反応を予想していなかったエドワードは、いとも簡単に飛ばされて背中から芝生にぽてんと落ちた。腹を見せ、目を大きく見開いている。あ、と後悔の声を漏らしてイワンが身をすくませると、エドワードは我に返ってすばやく起き上がり、毛を逆立てて歯をむき出し、シャアッと鋭く鳴いた。イワンがびくっと震えてよたよたと後ろにさがる。
「なんだよ、こわいのかよ! 意気地なし!」
 へにゃ、とイワンの耳が垂れてしっぽは芝生に落ちる。哀しげな目で鼻を地面に向ける。それすらエドワードには腹立たしい。エドワードは一緒にいたいと思っていたのに、一緒に海の向こうへ行ってみたいと思っていたのに。行かないでなんてぐすぐす言っていたくせに。裏切られた気分だった。ぐるぐると唸る。イワンはきゅうきゅうと喉を鳴らしている。
「俺は、意気地なしなんか大嫌いだからな!」
 とどめを吐き捨ててイワンに背を向けて丸まり、エドワードは自分のしっぽをがじがじと噛む。なんだ、なんだ、イワンのやつ、意気地なしめ。まだきゅうきゅう鳴いてやがる。鳴きたいのはこっちのほうだ、背中から振り落とされるし、うまく着地できなかったし、腹なんか見せてぽかんとしちまうし、楽しい気分は吹っ飛ぶし、おまえも俺と一緒にいたいんじゃないかって思ったのに、ぜんぜんそんなことはないし。ふうふうと息を荒げる。エドワード、よわよわしく呼ぶ声が聞こえても、返事をしなかった。イワンが、イワンがなにもかもぜんぶわるい。いったんはそう思った。
 しかし、一瞬の激情が去るとエドワードは、べつにイワンは何もわるくはないことに気づいた。イワンは、のらではなくて飼い犬だ。うんと小さなころに捨てられて、母ねこのこともほとんど覚えていないエドワードとは違って、イワンにはいまも家族がいる。彼らを置いては行けないと言っている。それは何にもわるいことではない。家族を知らないエドワードが、イワンの言う「みんなが心配する」を軽んじた、それこそがわるかったのだろう、とぼんやり気づく。振り落とされたのだって、先走って首輪を噛み千切ろうとしたエドワードがわるい。ぐるぐると喉が鳴る。こんどは、怒りではなく、ばつのわるさのためだ。いますぐに飛び起きて、イワンにごめんと謝るのがいちばんいいのに決まっていたが、ああも怒って見せた手前、言い出しにくくて仕方がない。エドワードはいっそう丸まって、どうしよう、と考え始めた。
 そんなエドワードの心情など知らず、イワンは丸まった背中を見つめていた。どうしよう。怒らせてしまった。エドワードが怒るのも当然だとイワンは思う。イワンは意気地なしだ。みんなが探す、みんな心配する、たしかに理由のひとつではあったけれど、イワンが二の足を踏むいちばん大きな理由は、こわいからだ。家を出て行くことが、家族とはなれることが、のらになることが。そのことをひとつもいわないで、家族が、と言っていたから、エドワードはイワンが単に踏ん切りをつけられずにいるのだと思ったのだろう。首輪を噛み切ろうとしたのだって、イワンがいやだと言いさえすれば無理を通されるはずもなかったのに、力いっぱい振り落としてしまった。意気地なし。大嫌い。耳の奥にまだ響いている言葉に、ぎゅうっと胸が苦しくなる。  イワンはもういちど、おそるおそる、エドワード、と呼ぶ。しばらく間があって、低く「なに」と返事があった。イワンはほっとして、エドワードに近づく。背中の硬い毛に鼻を埋める。日差しにあたためられた温度を感じた。毛づくろいするようにべろりと舐める。反応はない。
「あの、あのさ、エドワード」
「なんだよ」
「僕、あの、……ごめんね」
 エドワードが、がばっと体を起こした。信じられない、という顔でイワンを見る。信じられない、というのは、「なにばかなことやってんだこいつ、信じらんねえ」というふうな信じられない、だ。イワンは思わず首を縮める。なにか気にさわったろうか。イワンが自分の言動に考えをめぐらせる間に、エドワードは口をぱくぱくさせ、爆発するように叫んだ。
「なに謝ってんだよ!」
「えっ」
 そこ? イワンが戸惑っていると、エドワードはやりきれない怒りを前足にこめて芝生を叩き、草をいくらかくったりさせると、さらに叫んだ。
「なんでおまえが謝ってんだよ! おかしいだろ! ばかじゃねえの! なんで、……なんでおまえが謝ってんだよ!?」
「だ、だって、僕が」
「ばっかじゃねえの! イワン、おまえ、なんにもわるくねえのに謝ってんなよ!」
「え、でも、」
「俺がわるいんだから俺が謝るんだよ、なのになんでわるくないおまえが謝ってんだよ!?」
「え、あ、ご、ごめん」
「だからさあ!」
 大きな声に圧されてイワンが小さくなっていくのをみて、エドワードは我に返った。おまえが謝るな、俺がわるいんだから俺が謝るんだと怒鳴り散らしてどうする。ばつのわるい顔になって、しばらくもごもごと口を動かしていたが、やがて意を決して鼻先をイワンの頬に擦り付け、「わるかった」とつぶやくように言った。
「……勝手なことばっか言って、わるかった」
「そんな、べつにエドワードは」
「わるかった!」
「う、うん」
 イワンが気圧されて頷くと、よしとばかりにエドワードも頷き、イワンの濡れた鼻に鼻をこすりつけた。ついで、頭と体とを使ってぐいぐいとイワンを押す。ああ、寝るのか、と察して、イワンは抗わずにころんと転がされた。横むきに寝ころんだイワンの頭を抱え込むようにして、エドワードが丸くなる。草のにおいに混じって、陽をふくんだエドワードのにおいがする。それをいっぱいに吸い込むと、じわ、と哀しみがこみ上げた。
「エドワード」
 返事のかわりにべろっと後ろ頭を舐められる。うひゃ、と背をふるわせ、イワンはもごもごと言葉の準備をする。
「あの、はやく帰ってきてね」
 涙がこぼれそうになって、イワンはエドワードの背中を前足で捕らえて胸もとにもぐる。魚のおいしいとこって、どのくらい遠いんだろう。エドワードがおいしい魚を食べ飽きて、僕に会いたいなって思ってくれるまでに、どのくらいかかるんだろう。行ってほしくない。けれど、一緒にも行けない。どちらもいやだ、というのは、ただのイワンのわがままで、勝手だ。待ってるから、と声を詰まらせるイワンの頭のうしろからあきれたような声が響く。
「はじめから行く気ねえよ」
「えっ」
「おまえが勝手に騒いだんだろ」
 不機嫌そうに言ってエドワードは、イワンの首の後ろにがぶがぶ噛み付く。わずかにだが痛みを感じる強い噛み方に、エドワードの苛立ちを知る。そういえばエドワードは、行きたいなんて言ったっけ。イワンは記憶をたどる。何度たどっても、エドワードは、チーズとかじゃがいもとか、花がいっぱいとか、雪が降ってるところには行きたくないと言っただけだった。それだけだ。うまい魚がいるとことか、と言う声にあこがれの色はあったけれど、やっぱり、それだけだった。
「じゃあ、行かないの?」
 念のためにたずねると、エドワードは噛み付いていたあごをゆるめてすこし考え込むようだった。そうして1羽のばったがぶうんと羽音を鳴らして2匹のそばに飛んできて、また去っていくまでの時間をたっぷり使い、もう寝てしまったんだろうかとイワンが不安になるくらいに間をあけてから、エドワードは言った。ひどく眠たげな声で。
「おまえと一緒なら、行ってみたいと思ったけど」
 その言葉はぽつんとイワンの胸に落ちて、見当違いの哀しみも勘違いの恥ずかしさもいっぺんにぬぐってしまった。かわりに、いま日なたにいるからというだけではないぬくみが広がっていく。僕となら。僕と一緒なら。わくわくして、そわそわして、あたりをむやみに駆け回りたい衝動が生まれる。心臓はもう先に駆け回ってしまっている。けれどもエドワードに抱きこまれているこの体勢では、実際にそうすることはかなわない。仕方なく、イワンは鼻先をもちあげてエドワードの腹や胸をべろべろ舐めた。代償行為だ。
 それも結局、エドワードの「うぜえねみい寝せろ」という言葉で封じられて、それからなんとか午睡に落ちるまでのだいぶ長い時間、イワンはうずうずした気持ちを抱えて過ごした。