cymbalum

※刑務所でのモブ砂輪姦前提のうえ、スカトロジー(小)描写をはじめとした人を選ぶ感じの表現あり※




 イワンが俺を好きだと言う、そのたび俺は何か痛ましい、ひどいものを見たような気分になる。踏みにじられる善人、虐げられる聖者、顧みられない貧者たち。いたたまれない、憎らしい、哀れな、みじめったらしい、救い上げたい、踏み躙りたい。好意と悪意がないまぜになる。それでも、いつも好意の比重が大きいのは、俺がイワンを、愛しているからだ。イワンの汗ばんだ手のひらが震えているのを手の甲に感じながら、俺はそうだったらいいと考えている。
「……エドワード」
 俺の名を呼び、イワンが顔を近づけてくる。生ぬるい呼気を感じて、俺は目を閉じる。すこし開いた唇がおそるおそるかぶさって、ちょっとだけ探るように動いたあと、ゆっくり舌がもぐりこんでくる。馬鹿のひとつ覚えみたいに同じキスをしてくるイワンの、手だけが違う動きをした。俺のわき腹に、湯気を立てるケトルにするようにちょっと触れ、腰骨の辺りを、犬嫌いが犬を撫でるようにおっかなびっくり撫でて、ベルトのバックルあたりで手をとめた。かちゃ、と金属の触れ合う音がする。片手ではずそうとしている。無茶だろ、と思う。キスするか、脱がせようとするか、どっちか選べばいいだろ。もしくは脱げとでも言え。
 でも、まあイワンがやりたいならいいかと思ってしばらく待ってみたが、イワンはいっこうに俺のベルトのバックルを攻略できない。たしかにな、ネクタイとかも自分では結べるけどひとのを結ぶのってむずかしいよな。ベルトはずすのもそうなんだろう。片手だし。だけど、それにしたって手間取りすぎじゃないのか。何度も何度もついばまれる唇はしびれるわ唾液でべたべただわでさんざんなことになっている。とうとう痺れを切らして、俺は重なったままだった口を大きく開けてイワンの唇に噛み付いた。イワンが「いだぁっ」だとかいう感じの間抜けな声をあげて後ろに引く。フトンから滑り出てざりっとタタミが悲鳴を上げる。
「おせえ」
 文句つけてきそうなイワンに、唾液まみれの口まわりをぬぐいながら先手必勝とばかり言葉を叩きつけてやると、這いずってきてふたたびフトンに乗り上げたイワンは、物言いたそうな顔をしたままではあったものの、口を押さえて黙ったままになった。
「自分で脱ぐから言えって」
「や、やうろか、え、らって」
 イワンが覚束ない口調で言う。強く噛み付きすぎたかもしれない。口を押さえている手をとってはずさせる。血はさすがに出ていなかったが噛みついた粘膜に血の色が赤く散っていた。親指で撫でてやる。
「せめてどっちかにしろよ」
 ちょっと悪かったかなという罪悪感から、俺は譲歩というか、まあ、譲歩か、譲歩した。イワンはたぶん童貞なので、相手の服を脱がすことに一種の義務感とかロマンとかこうすべきであるはずみたいな思い込みなんかを感じているんだろう。でも、童貞なものだから、気持ちいいから、キスもしていたい。結果、キスしながら相手の服を片手間に脱がそうなんて馬鹿なまねをする。どっちもやめろとは言わないから、どっちかをやめろと譲歩したのだ。
 イワンは唇を引き結び、釈然としないような顔をしていたが、やがて「わかった」と言って俺に手を伸ばしてきた。

 そして俺はベルトを抜かれボタンをはずされジッパー全開で下着が丸見えという間抜けきわまる姿にされた。俺をそうしたイワンはどうしているかというと俺の着古してくたくたになったジーンズを脱がせるよりも先にシャツを脱がすことをなぜか優先させて、「エドワード、両腕あげて、両腕」などと要求してくる。
 おれは幼児か? などといちいち皮肉を言うのも面倒で、言いなりに両腕をあげながら、そういえばイワンが日本ではこの動作をバンザイというらしいとかなんとか言っていたことを思い出した。意味を聞かなかったことも。イワンが俺の好きなものにあまり興味がないように、俺もイワンの好きなものにあまり興味がない。
 イワン自身には、興味があるけれども。
「おまえって童貞?」
 首から頭へシャツをむしり取られながら、イワンにそう訊く。ほとんど確認みたいなものだが、イワンは視線をうろうろさせ、すでに真実を呈しながら、やけに気まずそうにのろのろと頷いた。
「うわまじで」
 こいつ、俺で童貞切るんだな。
 わかってはいたが、こうもはっきりと告げられると、率直に言って哀れみしかわかなかった。せっかくヒーローになって、金も手に入れたんだから、オタク趣味に突っ込むまえに、どっかでかわいい女の子でも男の子でも抱いておけばよかったのに。よりにもよって、こいつの童貞食うのが、人殺しの犯罪者。逆恨みで脱獄して、相手を殺そうとしながら、殺されそうになったらぶざまに逃げ回るような卑怯者。世のなかは善人を踏みにじるようにできているのにちがいない。なんてかわいそうなイワン、哀れな真性童貞。
 哀れに思う、だが、そのいっぽうで、大声であざ笑いたいような衝動を感じている。イワンは、誠意だとか、愛情だとか、献身だとか、己の持てるよいものをすべて差し出して、俺を、この使い古しをもとめている。こんな笑える話があるだろうか。
 イワンが大切そうにおそるおそるキスをする俺の口は、歯を抜くとおどされて必死にフェラチオをおぼえ、たわむれに注がれる精液や小便を飲み干してきた口だ。汗ばむほど緊張して触れる手は、ペニスを何本つかんだかもわからない、傷をおそれて口から唾液を掬い取っては尻の穴をひろげてきた手だ。イワンはときおり俺に愛の言葉を求めるが、俺は5ドルで俺を買った男に乞われて突っ込まれてるあいだじゅう愛していると繰り返したことがある。塀の向こうで、俺はあたらしくて多少見目がいい便所だった。
 俺は思う。こいつは使い古された便器にひざまずいて求愛している。こんな笑える話があるだろうか? おまえが俺にキスをするたび、いままで俺が飲んできた精液やら小便やらをおまえの、家族としかキスをしたことがないような口に移しているような気分になって興奮すると言ったら、イワンはどんな顔をするだろう? それでもイワンは俺に触りたいとか好きだとか言うだろうか?
 言わなかったとしたら、俺はどうするだろう?
「エドワード?」
 だめだな、ぼうっとしてた。不安そうにしているイワンにキスをしてやって、そうだと思ってたから気にするなよ、とささやいてやった。イワンがほっとしたように息を吐き、ぎゅっと口もとに力を入れて、まっすぐに俺を見た。
「ぼく、は、エドワードがなんでも、どうでも、気にしないからね」
 イワンには、俺が男を相手に寝たことがある、という一点だけを明かしているが、いまのイワンはなにを想定していっているんだろう。なんでも。どうでも。だれかイワンの知らない真摯な男の恋人だったのだとしても、囚人どもの使い古されたおさがりの便器でも?
「じゃあ俺も、おまえが巨根でも短小でも気にしねーことにするわ。おまえさっさと脱げよ」
 軽口に顔を真っ赤にしながらも、イワンは乱雑に服を脱ぎ捨てはじめた。俺もついでにジーンズと下着を放り出した。フトンのそばに置いていたローションのボトルとコンドームを引き寄せて、フトンのうえに敷いたバスタオルの上に座る。イワンも服を脱ぎ終えてバスタオルの上に乗っかった。巨根でも短小でもなかったイワンのペニスは、すでにだいぶ勃起していた。苦しかったんじゃないかこれ、童貞すごいな。いや、俺も童貞だったことはあるんだけど、いまさらそんなことは思い出せない。
 これは一回抜いてやったほうがいいのかもしれない。思案していると、イワンの手が肩にかかった。興奮しきった、熱い手だった。それがうれしかった。うれしかったのが、うれしかった。俺はイワンが好きだ。
「その、い、いやだったり、痛かったら、ちゃんと言ってよ、ちゃんと、やめるから」
 目がまるくなるのを感じた。つぎに笑いが腹の底からこみあげ、気づいたら俺は、声をあげて笑っていた。イワンが、すでにちょっとピンク色だった顔を一気に赤くして、「笑うなよ!」とめずらしく声を荒らげる。いや、笑うだろ。笑うしかない。
「わりいわりい、やっさしいおまえがさあ、俺にどんないやーなこととか痛いことすんだろって思ったらさ、なんっか笑えてきて」
 どうにか笑いをおさめようとひいひい言っている俺を、イワンはしばらくくやしそうにしながらだまって見ていたが、やがて埒があかないと気づいたのか、手を伸ばして頬に触れてきた。怒ったようなしかめっ面と、イワンにしては乱暴な手つきに反して、キスはいつも通りだった。さらに笑ってしまいそうなのを、俺は必死にこらえていた。それでも近づきすぎた体どうしでは、ちょっとした振動すら隠し切れない。笑わないでってば、今度はおねだりでもするような情けない声で言われ、ゆっくり、大事なもののように背を倒される。まるで、俺が価値あるものみたいに。
 笑いをどうしても止められない俺は、イワンの耳にそっとささやく。おまえが、あんまりかわいいから。

 もろいもののように大切に扱って、価値あるもののように大事に触れて、
 そのうえ、いやだったら、痛かったらだなんて、おまえはほんとうにかわいいよ。
 おまえがいまさら、俺の何を傷つけられるって言うんだ。