我が身かわいや

 夕暮れどきから降りはじめた雨は、夜半を過ぎるころになっても止む気配がなかった。三成がいるのは奥まった部屋だというのに、湿った気配はどこからか忍び込み、ひんやりとまとわりつく。雨戸を隔ててなお響くかすかな雨音を、耳を欹てて拾ってしまっている己に気付き、三成はひどく不快になった。額のあたりに力がこもる。
「そう、しかめつらを、するな」
 闇の中からかすれた声が響いた。ほとんど吐息のようだったが、わずかに笑っているのがわかった。ともしびひとつないこの部屋で、しかめつらもなにもわかるものか、三成はそう思ったが、口をつぐんだ。他の誰にわからずとも、己自身ですら知れずとも、彼にだけは、吉継にだけはわかるのかも知れぬ。そう思ったのは、口をつぐんだ後だった。苦しげな笑い声が聞こえた。
「何がおかしい」
 吉継の顔があるであろう場所を見据えて、三成はそう問うた。言葉の調子を妙に意識した。三成にとって、言葉とは、いつもただ思ったことを投げつけるだけのものだ。憎悪であれ敬意であれ軽侮であれ親愛であれ。言葉の内容を、あるいは調子を、相手がどう受け止めるかなど意のほかであった、それがいまはどうだろう、よこたわる病人の神経にさわらぬかと言葉をのみ、あまつさえ、声の調子にすら気を使っている。
「いや、いや。ぬしが黙りとは、稀なこと……もしや、あすは雪か」
「馬鹿を言うな。もう直に春だ。今更雪なぞ降るものか」
「そうか。まァ、そうよな」
 つぶやくと、吉継はひと仕事を終えたあとのように深く息をついた。慎重に息を吸い、また吐く。三成は雨の音ではなく、その音に耳を欹てている。不自然な息の音が落ち着き、ほとんど聞こえなくなると、今度は三成のほうがそろそろと息を吐く番だった。
 大谷吉継は墓穴に片足を、どころか、両足をすっかりと納めてしまっていた。もともとが病で無理のきかぬ体だったというのに、東奔西走を繰り返し、終いには三成を庇って本多忠勝の槍を腹に受けた。命は辛うじて取り留めたものの、傷による著しい体の衰えは、病が吉継の体を致命的なまでに虫食む手助けとなった。体は手先足先からぐずぐずと爛れとろけて落ちる。傷は膿み崩れ塞がらず、血膿は拭っても拭っても溢れ出る。飯など食えるはずもなく、喉を湿らす程度に白湯や重湯を舐めるばかりで、体は日に日に細ってゆく。
 じきに吉継は死ぬだろう。三成はもう死ぬことは許さないとわめきはしなかった。死ぬはずがないと思い決めて落ちついているわけでもなかった。吉継は死ぬだろう。半兵衛が身罷ったとき、秀吉が弑されたとき、家康が討たれたとき、三成が何の役目も果たさなかったように、吉継が死ぬときにも、三成は何の役目も果たすことはないのだろう。そう気付いてしまうと、それらの言葉や思いは、ただ空虚で、無意味になった。
「直に春だ」
 だから、三成はことさら、以前であれば口の端にすらのぼらせなかったような空虚で無意味な言葉を吐くようになった。直に春だ。だから何だ。そんなことはいちいち口に出すまでもなくわかるはずだ。
「桜が咲く」
 たどたどしい三成の言葉に、吉継はこたえなかった。眠ったのだろうか。あるいは口を開くことすら億劫なのか。あるいは、あるいはもう、そう考えて、三成はめまいをおぼえ、上体が揺らいだ。床に手をついてもめまいは止まず、手のひらにふれる床さえひどくおぼろげな、頼りないもののように感ぜられた。口をもういっぽうの手のひらで覆い、ふるえ始めた歯を噛みしめる。
「貴様は花見が――好きだっただろう」
 歯の鳴る音が言葉に混じる。花見になど行ったところで、吉継の盲いた眼には何もうつらないことを、三成はよく知っている。吉継は何もこたえない。
「昔――は、貴様が私の、手を引いて」
 瞬きをする。目の前で闇がめぐっている。めぐる闇の中で、まぼろしの光がかそけくあらわれ、ふつりと消えゆく。やがてそれらも消えてしまう。
「手を」
 手を握る。その手の中にかつてあったぬくもりを、三成はもはや思い出すことができない。その手はもう二度とそのぬくもりにふれることはない。吉継の手は腐れて落ちた。少しずつ、吉継は失われ、喪われてゆく。三成のもとから去ってゆく。背の骨が氷に変わったかのような悪寒におそわれ、三成はぶるぶると身を震わせた。
 三成は、豊臣秀吉を喪ったとき、神を、進むべき道を、それを照らす光明を失った。徳川家康を喪ったとき、弑逆者を追う正義を、もはやそれのみによってしか証されなくなった忠義を失った。では、大谷吉継を喪ったとき、三成は何を失うのだろうか。三成はいま、何を失おうとしているのだろう。
「刑部」
 三成は呼んだ。直に、三成が喪う者の名を、ふるえる声で。そのとき三成が何を失うのか、吉継ならきっと知っているだろう。刑部。三成は呼んだ。吉継はこたえなかった。