いとし乳飲み子

 ちゅう、とくぐもった音が掛布のなかから響く。その音が漏れぬようにと紀之介は掛布をその上にかさねた着物ごと引き寄せた。そのために身じろいだのが気に食わなかったのか、腰にまわされた腕の力が強まる。鎖骨の下にざらりとしろがねの髪がすりつけられ、紀之介は震える息をついた。ちゅう、ちゅう、と音はとぎれとぎれに続いている。
「……さきち、」
 生ぬるい呼気の蟠る掛布の下へと、名を呼んだところで返事はない。佐吉は半分眠ったままで、紀之介に手足を絡みつけている。そうして、紀之介の夜着の袷をゆるめ、腹をすかせた赤子のように乳を吸っている。むろん乳房もなく女ですらない紀之介から乳が出るわけもないのだが、目を閉じたまま一心に紀之介の薄い胸へと吸い付いている。

***

 佐吉がはじめにそうしたとき、さすがに紀之介はおどろいたし混乱した。いま、ふたりがいる小姓部屋で、紀之介と佐吉のほかにも数人の小姓たちが眠るこの部屋で行われたことも紀之介の惑乱に拍車をかけた。とっさに佐吉の頭を引きはがそうとしたがかなわず、あらがうようにつよく噛みつかれてあきらめざるを得なかった。あとはただ、いまもそうするように掛布やら何やらをかき集め佐吉にかぶせて音を殺し、佐吉がはやくやめてくれることと、誰も気づかぬことをひたすら祈った。
 しばらくすると、腹の満ちた赤子のように口から乳をはなしよだれを垂らして、佐吉は完全に眠りに落ちた。その佐吉の手足をほどき、できるだけ遠くに押しやってからも、紀之介はさっぱり寝付けなかった。佐吉に吸われた乳はじりじりと疼き、先刻の出来事は現だと知らしめてくる。
 夢であったらあったで、己の親友に対する認識をとくと見つめなおさねばならぬところだったが、現であるとすれば、なおさらどうすればいいのかわからなかった。佐吉に何と言えばいい、寝ぼけてわれの乳を吸うのはやめよなどとはたとえこの二枚舌を駆使したとて言えぬことだ。佐吉は剣術に秀でた小姓で、その能力に相応した、あるいはそれ以上の矜持をかかえた少年である。寝ぼけてのこととはいえ、赤子のように友の乳に吸い付いたと知れば、ひどい衝撃を受けるのに間違いなかった。いや、そのまえにまず、信じるかどうか。乳を吸ったのいや吸わないのと、そんなことで佐吉と口論することを考えるとめまいがした。竹中半兵衛をして己に次ぐ悟性をもつと言わしめた紀之介ではあったが、いまの己がおかれた状況には頭を抱えるほかない。
 結局は、何の結論も見いだせないまま夜は明けた。目を覚ました佐吉は寝たふりをしている紀之介をおいてひとりだけさっさと身支度へ向かい、その後朝餉の席で顔を合わせたときにも普段と何ひとつ変わることがなかった。眠り足りずぼうっとした頭で、覚えておらぬならそれがよい、と紀之介は思った。あれきりで終わることも十分に考えられる、佐吉はきっとゆうべはとくべつ疲れておったのだろう、もう二度とないのであれば忘れることは容易だ。

 けれども、紀之介の考えとは反対に、佐吉はその日の夜にも紀之介の乳を吸った。

 紀之介は前夜とおなじように佐吉を隠した。腕を腰にまわし、足をからめ取って、からっぽの乳をちゅうちゅうと熱心に吸う友の髪を撫でてやりながら、前夜よりはずっと落ちついた、しかしひどい眠気でぼんやりとしている頭で考えた。
 ――佐吉は淋しいのだろうか、母が恋しいのだろうか。
 父や兄も豊臣に仕官しているため、佐吉の母も大坂城下の邸で暮らしている。会いに行こうと思えば容易いと言うのに、佐吉はほとんど足を運ぶことがない。兄や紀之介が何と諭そうが、一刻も早く秀吉様のお役にたつ兵にならねばならぬ、そのような時間は私にはないと言う。淋しくはないのかとたずねたこともあったが一笑に伏された。しかし、いくら言い繕ったところで、この状態をみればやはり佐吉は母が恋しいのだろう、甘えたいのだろうとしか思えはしない。佐吉のしぐさは赤子そのままだ。
 そう思えばこの意地っ張りで強情なひとつ年下の友が奇妙なほど滑稽に、あるいは哀れに感じる。本当は母のやわらかな胸に甘えたいのだろうに、佐吉自身がそれを許さぬために、このようにゆがんで発露してしまったのだろう。
 そっと掛布をもちあげてみると、眠る佐吉の間抜けな顔がのぞいた。よだれに照り光る桃色のくちびるが紀之介の乳を食んでいる。鋭い眼光を放つ瞳が瞼に隠されてしまえば、佐吉はひどく幼く、頼りなく見えた。胸の奥の奥、心の臓、その裏が疼くのを感じる。その覚えのない感覚に、紀之介はわずかに困惑した。
 掛布を引き寄せて佐吉の頭を再び隠し、胸に抱え込むようにすれば、ちゅう、とひときわつよく吸われた。髪をかき分けうなじを指先でかりかりと掻いて宥めてやる。ゆるりと佐吉の体から力が抜け、よわく二三度唾液を啜るようにしたあと、前夜とおなじく眠りに落ちた。紀之介は前夜とは反対に、眠った佐吉をかるく袷を整えた胸に抱えてやって、絡みついた腕も脚も解くことをせずにおいた。つむじに頬を擦り付け、胸元にかかる寝息を感じながら眠った。

***

 紀之介はそれからいまに至るまで、ときおり顔をのぞかせる佐吉の奇妙な習癖を拒みはしなかった。幾度かそれとなく母に会いにゆくことを佐吉にすすめはしたが、そうしたところでこの習癖がやむと考えはしなかったし、そもそも佐吉が提案を飲むとも考えなかった。佐吉は紀之介にすすめられたことで母をたずねはしなかったし、また、所用や祝い事などで邸へゆくことがあっても、その後に佐吉の癖が抜けるということもとくになかった。甘え方も知らぬ子どもであるから当然のことだ。佐吉が己の欠落を知ることはなく、ゆえにそれを埋める方法を知ることもない。

 佐吉ははじめてそうしたときと変わらず、餓え渇いた赤子がそうするように熱心に吸い付く。そうして何かを満たそうとしている。佐吉は何を知ることもないが、佐吉の意識せぬ部分は、己の欠落を知り、それを埋めるものを求めている。偶然傍にいたためか、あるいは信を置いているためなのか、求める相手はなぜか紀之介だ。幾ら求めようとも何を満たすこともない相手を、なぜか佐吉は求め続けている。
 生ぬるい舌がべろりと肌を這い、紀之介は背をふるわせた。赤く腫れ、痛みはじめた乳を、佐吉が癒すように舐めていた。それを感じると、紀之介は何とも言いがたい奇妙な感覚に息が詰まるのを感じる。喉をやわくふさがれるような、胸がじんわりと満たされるような。しばらくするとまたちゅうちゅうと乳を吸いはじめたが、奇妙な感覚は消えずに残っていた。
 掛布で頭の天辺までおおわれているために、うすく汗をかいている佐吉の秀でた額を撫でてやりながら、いつでも拒むことはできる、と紀之介は考えた。佐吉に己のしていることをはっきりと伝えてもよいし、もう同衾はせぬと言い渡すのでもよい。だが、べつに、それはいまでなくともよい。佐吉のこの習癖は、年を経ることで消えるかも知れないのだから、せめて佐吉が名を変えるまでは、ようすを見てやるのがよかろうと、ぼんやりそう考えている。あるいは、紀之介のほかの、佐吉の求めるものを与えることができる者を、佐吉が見出すほうがはやいかも知れぬのだから。
 だから、いまはこのままでもよいはずだ。