母と鬼子

 秋も深まり、もう冬へと転じようとする季節だった。
 彼女のただひとりのいとし子は、数日前から病でふせっている。体の弱い彼女のいとし子は、季節の変わり目、日中と夜の寒暖の差に敏感で、すぐに風邪をひいてしまう。いまは離れで休ませている、しずかなほうが落ち着くだろうから。母屋では、どうしてもひとの声や足音がひびき、それが病で細くなった神経を痛めつけてしまう。
 あの子、あしたは食欲があるかしら。彼女はそうとだけ考えている。下女が伝えた来客の知らせにも、ほとんど音もたてずに背後の襖の開く気配にも、首をめぐらすことすらしなかった。お久しぶりです、母上。その言葉すら、黙殺した。
 衣擦れの音。いとし子によく似た声。似ているだけ、似ているだけの、憎らしくて恨めしくてたまらない存在。
 彼女は窓の外、離れの方向をみつめている。何があるわけでもない。ただ、いとし子のことを考える。彼女がたったひとり、腹を痛めて生んだ、あわれな子。あの子は生まれてから、おおよそ外と言うものを知らない。一年の半分は寝込んで過ごす。もう半分は、せいぜい布団の上に起き上がるか、畳に坐して本を読む程度。散歩に行けた日など、この二十数年の生の中で、数えられるほどの日数しかない。
 ――ぼくとあの子は、何がちがうの。
 彼女のいとし子が、ずいぶん昔にぽつりとこぼした言葉を、彼女はいまでもまざまざと思い出すことができる。胸にさした影、その暗さ、その絶望。彼女ははじめていとし子のまえで涙をこぼした。思い出す。この男をまえにすると、彼女はいつも、あのときに引き戻される。
「御言葉を賜わりたく、参じました」
 ひくく、声が背をたたく。彼女は顔を向けはしない。
 あのとき、泣き出した彼女に、彼女のいとし子はひどくあわてた。べつに深刻なおもいで訊いたことではなかったのだろう。単に、ろくに遊ぶこともできない自分のそばに、同じ姿かたちをして動きまわるものがあったから、沈黙のついでに訊いてみたという、ただそれだけだったのだろう。しかしそのことばは彼女の中の何かを確実に砕いた。誰がわるいのでもない。ただ、ことばと言うものは、投げる重さと受ける重さがおなじではないという、それだけのことだ。
 砕けた彼女は言った。あれはおまえの弟でもわたしの子でもない。おまえの持つべきを奪って出でた鬼子であると。彼女のいとし子はきょとんとして、わずかに首をかしげただけだった。理解がおよばなかったのだ。そして、彼女のいとし子は、二度とその疑問を口にしなかったから、彼女はそのことを繰り返し言い聞かせる必要はなかった。  しかし彼女は繰り返した。真実になれとばかり繰り返して、いまや彼女の中ではそれは真実である。
 彼、男、――育ちきった鬼子が言う。
「どうか……愛していないと」
 畳にはねかえる、くぐもった声。
「私が要らぬと仰ってください、母上」
 叩頭している、鬼子。いじましい、いじましい、吐き気を感じて彼女はくちびるを噛む。鬼子が発するどんなことばも、彼女には届かない。気味のわるい振動としてひびくばかりだ。
 彼女は口をひらいた。丸窓の外では雪が降りだしている。ああ、わたしのいとし子、あの子に、湯たんぽをもういくつか、持って行ってあげなければと考える。そのために。
「伊東殿」
 彼女は鬼子を呼ぶ。鬼子に、彼女の夫が与えた名ではなく、この家を出でて完全に他人となり果てて鬼子が得た姓を、呼ぶ。それすら、口にするとおぞましい感触がし、不快な味が舌に残った。
 鬼子が面を上げる気配がする。
「お引き取りくださいませ。あなたが何を望んでいるのか知りませぬが」
 鬼子の視線を背に感じる。
「わたしがあなたに与えるものは何一つありません」
 恐るおそる、といったふうに、息をつく気配。彼女は彼女が鬼子の何かを砕いたことを知った。そうなると知っていて、そうした。このことばが鬼子にとって、どれだけの重さ、鋭さを持つかなど彼女には知る由もないが、――かなう限り重ければ、鋭ければと願っている。
「あの子にあたたかいものを届けてあげなくては。どうかお引き取りくださいませ」
 彼女が言い終えて黙ると、平静な、先刻よりはよほど平静な、声で、鬼子は退出の口上を述べ、立ち上がり、去っていった。彼女は身じろぎもせずに座っていた。足音が遠ざかる。
 二度ともどらぬだろうと思い、願い、祈った。あれへの、愛も、情も、他人に対するような薄っぺらい慈悲すらも、彼女は持ち合わせていない。親心など、あるはずもなかった。
 ――あれは、わたしがわたしのいとし子、鷹久へ分け与えたものを、すべて喰らって産まれた鬼子だ。
 その考えが、あのとき砕けた彼女をつないでいる。取り去ることは誰にもできない。あれは鬼子だ。鷹久は、駆け回ることも刀をふるうことも学問をすることもできず、生まれてからえんえんと病魔に憑かれている。本当なら。本当ならば。あれの健康なさまもたぐいまれな器量も、すべて鷹久のものであるべきだのに。

 ――御言葉を賜りたく、
 ――愛していないと、
 ――私など要らぬと、

 彼女は畳に爪を立てる。あれはわたしが何かを与えるまでもなく、鷹久から根こそぎに奪っていった。まだわたしから何かを得られると思うのか、与えられると思うのか、奪ってゆくつもりなのか。
 おまえなど、おまえなど――
 そのさきの呪詛は、ことばにすらできないほど醜い。

***

 ――そして、ひととせののちに、彼女のもとへ訃報が届く。
 彼女は思い知る。ふるえる膝を支えながら、早鐘を打つ鼓動に悪寒をおぼえながら、耳を打つ男の声を聞きながら、思い知ることになる。

***

 寒い朝だった。電話が鳴った。下女に取らせるところを、何の気まぐれでか、彼女は自ら受話器を取った。そうして訊かれた。伊東、鈴木鴨太郎殿の御実家であられますか。この家にいたころの名は、鈴木鴨太郎、家を出て、伊東鴨太郎。あの鬼子はそんな人間の名も持っていた。彼女はいいえと答えたかったが、電話の相手の男になぜか気圧された。そのとおりですが、どなたでしょう。彼女はそう答えた。男は真選組局長であると名乗った。なるほどいまあの鬼子はそこに属しているのだろう。刀を振り回し、警察とは名ばかりの殺人集団であると聞く。鬼子にはぴったりの居場所ではないか。そうやって、誰からも奪い続けていればいい。おまえなど。おまえなど。彼女は胸の内でそうつぶやく。
 真選組局長殿が何の御用でしょう。彼女がそう尋ねると、一瞬のためらい、そして男は言った。
 ――伊東鴨太郎殿、攘夷浪士と手を組み、真選組を転覆させようと試み、それゆえ、粛清いたしました。
 粛清。そのことばを胸にのみ、あの鬼子が死んだのだと解するのに時間がかかった。攘夷浪士。真選組。粛清。耳慣れないことばが理解を遅らせる。死んだ。生まれるべきでなかったあの鬼子が、彼女からも彼女のいとし子からもすべてを奪い尽くした鬼子が、死んだ。こんなにもあっけなく、簡単に。
 ――遺骸は要らぬ、首を晒すも何もかも、どうぞお好きになさいませ。
 彼女の口が勝手に動いた。自分で言いながら、なぜこのようなことを言っているのか少しも理解できない。受話器のむこうで、息を呑む気配。いいえ、そのようなことは、絶対にありません、有り得ませんと男が返す。
 ――遺品をすぐにお返しするのは難しいが、骨はかならずそちらへ、粛清と言ってしまったけれども俺、いや、私たちは決してそうは、今でも伊東殿はわれらの同志であると思っております、ですから。
 焦りすらにじませながら続けるのを、さえぎって言う。
 ――もう焼いたのですか。
 面食らう気配。
 ――いいえ、まだ通夜も済んでおりません。
 なるほど、男の声からはまだなまなましい、何かの気配がしていた。憔悴や、斬りあい、殺し合いにつきものの、奇妙な興奮や。
 ――そうですか。
 足もとがふにゃりと頼りなくなる。足が融けているかのように。いまは、早朝だ。夜更け、未明、それとも明け方。いずれかは知らぬけれども、おそらくは彼女が夢もみず眠っているさなかに死んだのだ。虫の報せもなにもなかった。あたりまえだ。つながりも絆もしがらみも、あの日に彼女が断ち切った。
 そしておそらくは、この電話の向こうで、あの鬼子が骸をさらしている。あの子の命までも奪うことはできなかったらしい。鬼子は、あの子よりも早く、死んだのだから。そう考えてさえ、彼女の心は軽くならない。そのことに、彼女はめまいがした。砕けた彼女をつなぎとめる、ものが、ざらざらと崩れていく。
 彼女は思い切り息を吸い、縺れそうになる舌をほどきながら早口で言った。
 ――あれは要らぬ者でした、なぜ生まれ、また生きながらえたものでしょう、生まれなければよかったものを、わが家にとっても、わたしにとっても、あなた方にとっても、……あれにとっても。
 数秒、沈黙が落ちた。どこか呆然としたような沈黙だった。彼女は狼狽した。なぜこのようなことを言ったものだろう。見も知らぬ男に、なぜあの鬼子、……鴨太郎への疎ましさを吐露したのか、彼女にはわからなかった。男が口を開く気配がした。
 ――あなたは、伊東殿を愛してはおられないのですか。
 途方にくれたように響くその言葉を、彼女は慄然と聞いていた。耳を塞ぎたかった。愛していない。愛するはずがない。鷹久は彼女が血肉をわけた子どもだが、あれは、その鷹久から血肉を奪い不具にしてしまった鬼子だ。
 ――あれはわたしの子ではない。
 血を吐くようにそう言って、彼女は唇をかんだ。うすい吐息がきこえ、そうですか、と続く。何を納得したのだろう。きっとこの感覚は、彼女にしか、いや、いまとなっては彼女にだってわからないものだというのに。男は静かに言う。
 ――あなたは生まれてこなければと仰るが、……俺はそうは思いません。先生は俺たちにとって必要なひとだった。今も変わりません。……わかりました、あなたが要らないと言うのであれば、先生の……伊東殿の骨は俺が貰い受けます、俺が弔います、……朝早くに申し訳ない、きょうはこれで失礼させていただきます。では。
 沈黙が落ちる。何か言いたいような気がしたが、何も言えるようなことは何もなく、彼女は無言で受話器を置いた。がたがたと手がふるえている。冷えて冷えて固まったようになった手を、もう一方の手で一本ずつ受話器からはずし、無理にこぶしに固めさせた。耳もとに声がよみがえる。

 ――御言葉を賜わりたく、
 ――愛していないと、
 ――私など要らぬと、

 あの言葉は兆候だったのだろうか。言葉は何も返さなかったけれど。愛していないと、おまえなど要らぬと、……あるいは、愛していると、必要だと、決して言えはしないけれど、もし、仮に、そう言ってやっていたなら、こんな報せを受けることなどなかったのだろうか。  張り詰めていた気が途切れて、膝から力が抜け、がくりと早朝の空気で冷えた床へとへたり込む。ひどい脱力感。手のひらで顔を覆うと、それがあまりに冷えているのにおどろいた。胃が重くしずむ。
 ぼろぼろと、はがれおちる、砕けていく。ぼくとあの子は何がちがうの。……そんなことは、彼女も知らない。わかるのは、彼女の腹の中で何かが決定的にわかれたということ、それだけ。崩れ落ちる、砕けてしまう。ばらばらに落ちるものを受け止めるように、広げた手のひらに落ちるものは、なかった。
 ――だれもわるくない。
 どこにも罪科はなく、罪びともいない。ましてや鬼など。けれどそれでは耐えられなかった。だれにも罪はない、だれもわるくない、それだけのことが、彼女には受け入れがたかった。
 鬼子は生まれた。どこにもない罪科を負わされるために。
 彼女は思い知る。どうしようもないほどに思い知る。憎くて恨めしくて仕様のなかった、彼女といとし子からすべてを奪い尽くしたあの鬼子は、ただ、彼女の息子でしかなかったのだと。