天の神様のいうとおり

 数日まえ、村を未曾有の土砂災害がおそった。多くの村人が、家屋が土砂にのまれた。救助された村人のうち、重傷の者はドクターヘリで大病院へ運ばれ、比較的軽傷の者と、遺体はこの宮田医院であずかっている。遺体の数はおびただしく、宮田医院は病院というよりも、遺体安置所として機能していた。医師が宮田ともうひとり、近隣の村から応援に駆けつけてくれた老医師しかいない以上、それもしかたのないことだった。その老医師も、連日の激務につかれきって、いまは仮眠室でつぶれている。
 宮田は診療室に詰めていたが、それは疲労でかえって目がさえて寝付けないせいでしかなかった。土砂災害からすでに数日、生きたものはほとんどが救い出され、あとに残っているのは死者ばかりだ。死をまえに、医者ができるのはせいぜいが書類をつくる程度でしかなかったし、当然それは、急務ではあったが一分一秒をあらそうといったたぐいの仕事ではなかった。本来ならば、すこしでも休息をとって明日に備えるべきだった。
 そうわかっているのに、宮田はどうしても休む気がしなかった。だからこうして、カルテを繰っては幾枚も幾枚も死亡診断書を書き綴っている。
 なぜだろうと考える。災害やそれに次いだ激務に神経が高ぶっているのか、いままで半信半疑だった伝承のすべてが真実だったとこうして証されたからか。それとも。宮田はほかの書類と離している一枚を視線でなぞる。この災害で、家屋と泥とに埋もれ、息子を亡くしたからだろうか。そのどれもが原因である気がしたし、逆にどれも関係がないような気もした。わからない。幼いころから感情を抑制することを善とされてきた宮田にとって、この世で一番不可解なものとは、己の感情にほかならなかったからだ。
 宮田は視線を手もとにもどし、書類づくりに意識を集中した。

 ***

 診療室の扉が開いた。宮田が顔を上げると、妻の涼子が立っているのが見えた。彼女はずぶぬれで、水のしたたる長い黒髪を顔に首に背中に纏い、着物の袖やすそが重たげに垂れていた。部屋にしみついた消毒薬のにおいにすらかき消されず、雨と泥の生臭いにおいが宮田のところまで届いた。
 腕には大事そうになにかを抱えていたが、宮田にとってはどうでもいいことだった。大切なことは、言いつけた役割をきちんと果たしたのかということ、それだけだ。
「……遣いはすんだのか。求導師様は」
 視線もむけずに宮田は問う。
「神代へ向かわれました。それよりも」
 涼子は、濡れた音を立てて宮田に歩み寄り、腕の中のものを差し出す。伸ばした手からも腕からも水が滴る。興味などないまま、首をねじって顔だけをそちらに向けた宮田だったが、その、もの、を目に留めると、目をみひらき息を止めた。それから、視線を上げて妻の顔を見る。雨水にぬれた顔、青ざめた頬、笑む双眸。
 宮田の反応に、涼子はいくらか誇らしげに笑みを深め、ことさらゆっくりと言う。
「司郎の具合がよくないようなので、診ていただきたいのです」
 ずぶぬれの赤子。
 司郎という名前。
 ……赤子は、眠っているのか気絶しているのか判別のつかないほどぐったりとしていた。呼吸にともなってわずかに動く小さなくちびるだけが、生きていることをしめしている。呆然としている宮田にかまわず、涼子は、座ったまま、体も向けていない宮田に赤子をぐいぐいと押し付ける。その振動で目を覚まし、赤子はぐったりとしていた体を急にはりつめさせ、まさに火がついたように泣きだした。泣き声、雨音、赤子を抱き寄せてなだめる涼子の声が、渾然一体となってわんわんと宮田の頭に響く。
 宮田にはたしかに、涼子とのあいだに司郎という名の子をもうけていた。しかし、涼子の差し出す赤子が司郎であるはずがなかった。

 ――地鳴り。
 ――揺らぎ。
 ――泥と雨。
 ――それから。

 恐慌に陥りつつある宮田をみおろし、涼子が笑う。おぞましいほどに喜色に満ちて。
「どうしてそんな顔をなさるのですか」
 司郎。宮田司郎。それは、いずれ医者となって『宮田』を継ぎ、いまの宮田とおなじように、神代と教会に傅いて暗がりで生きることを、生まれるまえからさだめられた、宮田の息子の名だ。
 司郎、宮田司郎、それは、泥にのまれて死んだ息子の名前だった。
「司郎は死んだ」
 唇をわななかせ、宮田はようやくそれだけ言った。なにかおそろしい悪夢の中にいるようだった。椅子がやわらかい地面へ沈みはじめているような錯覚さえおぼえる。
 雨水を全身から滴らせながら、涼子は揺らがない、視線にわずかに冷たいものが雑じる。そんなことは知っていると表情が語る。涼子は軽侮のにじむ視線で宮田を撫で、身を捩じらせ顔を真っ赤にして泣き叫ぶ赤子をひどくやさしげにあやす。泣き声はおさまるどころか余計にひどくなり、赤子は咽喉も裂けよとばかり泣き叫ぶ。もはやその声は人のものとは思えず、狂った鳥が啼くようだった。
「司郎、おまえのお父さまはひどいことをおっしゃるわ、せっかく、また司郎をくださったのに、ねえ、せっかく……」
 ――かみさまが、
 ――かみさまが。
「かみさまが、また司郎をくださったのに」
 うっとりと狂気じみて言う涼子は、赤子にいろのないくちびるをよせたが、息切れさえ起こしながら、赤子はそれを拒んだ。小さな手を突っ張り、背を反らして、涼子の腕から零れ落ちそうになることすら厭わず抵抗を続ける。涼子の細い腕から逃れようと全力で抗う赤子に、宮田はおもわず立ち上がって、手を差し伸べた。女の背の高さとはいえ、生れ落ちてまだ一年と経っていないのだろう赤子では、ひとたまりもない。
 なかば奪い取るように赤子を抱いた宮田に、涼子は何も言わなかった。笑いもせず、奇妙に表情の抜け落ちた、能面のような顔をしていた。髪から滴り、蒼白な顔を流れ、唇から落ちる水滴に乗せるようにぽつりと、涼子がつぶやく。
「かあさまに逆らうだなんて、なんてわるい子かしら」
 そうよねおまえはかあさまの子だもの。ぶつぶつと意味のわからないことを繰り返す涼子から、目をそらした。嫁いできたときから、涼子にはどこか病的なところがあったが、今日はそんな生易しい言葉では言いあらわせない狂気をおびている。
 腕の中の赤子をみると、泣き叫ぶことに疲れたのか、徐々にぐったりとしはじめていた。じっとりぬれた赤子の衣服から、宮田の白衣と衣服へ、雨水とともに、かすかな赤子の体温もつたわってくるのがわかる。宮田はわずかのあいだ、目を閉じ、医者としての自分をさぐった。妻のことも、司郎のことも、この赤子が真実何者であるかということも、いま考える必要などない。
「おまえは部屋に戻れ」
 赤子を診察台に寝かせ、ぬれた服を剥ぎながら、宮田は言った。涼子から返事はなかったが、ぐちゃり、べちゃりとぬれた音が遠ざかり、扉が静かに閉じた。赤子に釘づけようと必死の視線が、それでも寸時上がって、涼子の去っていった方向をみる。涼子が立っていた場所には泥と雨水が残っている。
 それらは、光の反射で、奈落へ続く穴のように、一瞬みえた。

***

 濡れた体をぬぐって小さな手足をさすり、乾いた布にくるんでやると、赤子の頬に赤みがさし始めた。まだ泣きだす寸前のようにしゃっくりを繰り返してはいたが、眠気には勝てないのか、まぶたが落ち始めている。
 外傷はない。栄養不良もみられない。涼子は、この赤子を、いったいどこから。訊ねたところで、問い詰めたところで答えないだろうことはわかっていた。
 宮田は考える。この赤子をどこへ連れていけばいいのか。
 順当に考えるなら、宮田は神代へこの赤子を連れていき、指示を仰ぐべきだった。どのような素姓の赤子なのか知らないが、この村の中のことならば、神代にわからないことはないだろう。それに、まさか宮田の者が犯した失態を、警察にとどけるわけにはいかない。宮田は、この赤子を、神代へ連れていくべきだ。
 しかし、そうはしたくなかった。できることならば秘密裏に、この赤子を正しい場所へと戻したかった。たとえ両親のもとでなくとも。神代にだけは知らせたくない。宮田には懸念、いや、確信がある。
 神代はきっと涼子と同じように、この赤子を『宮田司郎』にすることを望むだろう。
 わかりきったことだ。司郎は死んだ。宮田と涼子のあいだには、もう子は望めない。宮田の跡継ぎがいないのだ。そこへ転がり込んできた素性不明の男児、まるであつらえたように。神代はあたりまえのこととして、この赤子を『宮田司郎』にするだろう。
 それを宮田は許容できない。『宮田』の名は、この村ではあまりに重い意味を持つ。なんの所縁もない赤子に背負わせていいものではないはずだ。
 もはや一刻の猶予もない。状況が落ち着けば、涼子が神代へ接触を図るだろう。
 宮田は決断をくだした。

 ***

 疲れ切った老医師をたたき起こし、病院をまかせてから、宮田は赤子を連れて教会を目指した。雨に体温を奪われ、泣き叫んで体力を使い切った赤子は、車に乗せるときも、おろすときにも、寝入ったままで目覚めなかった。
 宮田が聖堂の扉をたたくと、まだ神代にいるとばかり思っていた義兄が顔を出した。
「宮田くん、いったいどうした」
 いつも撫でつけている髪はほつれ、目は赤く充血して、うっすらと髭がのびた憔悴しきった顔に、それでも気づかわしげないろを浮かべて牧野が問う。
「牧野さん、お話したいことがあります」
 言いながら、宮田は腕に抱えていた赤子のくるみをはぐって牧野にしめした。その感触が不快だったのか、顔をしかめた赤子はゆるやかに身をよじり、泣く準備をはじめようとする。ここでまたあのように泣き叫ばれては話どころではない、宮田はあわてて赤子をくるみなおした。
「どこからか、涼子がつれてきた子です。中へ入れてください、ここでは人目につかないともかぎらない」
 赤子に視線をそそいだままそういうが、牧野からの返事がない。いぶかって宮田が顔をあげると、牧野は呆然と赤子を見つめていた。
「牧野さん」
 宮田が語気を強めて呼びかけると、牧野はわれに返ったようだった。
「ああ、すまない、……中へ」
 牧野の妙な態度を宮田は不審に思ったが、その理由はすぐに知れた。
 うす暗い聖堂へ足を踏み入れると、信者席に求導女が座っているのが見えた。腕になにか抱え、しきりに話しかけている。赤ん坊だ、と宮田は気づく。ここにも赤ん坊がいるのかと、奇妙な符合に思わずそばによって、宮田は目を見開いた。
 宮田の腕の中の赤子と、そっくりそのまま同じ容貌をした赤子が、求導女に抱かれ、うとうととまどろんでいた。
 ―― 一卵性双生児。
 宮田の頭にはっきりとした像がひらめく。妊娠中毒症を発症し、宮田医院にしばらく入院したのち出産した妊婦、村の産婆を医院に呼び、宮田自身も手伝って、ようよう産まれたのは男の一卵性双生児、牧野がちょうど病院へ、べつの患者の慰問のためにたずねてきていたので、求導師手ずから眞魚字架を産まれたばかりの双子の額に描き、そのことに双子の父母はひどく恐縮しながらも喜びを隠せない様子だった――
 吉村克昭。吉村孝昭。双子に与えられたのは、確かそんな名前だったように思う。
 なんてことだ、宮田は愕然とした。宮田は、教会で一時赤子を預かってもらうために来た。牧野の事情も知ってはいたが、ほかに場所を思いつけなかった。しかし、そもそもの前提がまちがっていたのだ。教会ならば、牧野――義兄ならば、神代よりもひとりの赤子を慮ってくれるだろうと、宮田は判断した。お笑いぐさだ、涼子は、牧野の妹であり、兄と妹は共犯者であったのだ。
 宮田は牧野を振り返る。牧野は気まずげに視線をそらし、くちを開いた。
「教会に……捨てられていたんだ。きっと神の思し召しだろう。わたしにもきみにも跡継ぎが必要だ。だから」
「嘘だ」
 うつむき、弁解がましく言葉を連ねる牧野を、宮田は反射的に遮った。牧野は唇を引き結び、ますますうつむく。宮田の存在に気付かないかのように赤子をあやしていた求導女が、目を上げて宮田をみる。立場を弁えなさいとでも言いたげな、慈愛ぶかくたしなめる母親の目だった。しかし、宮田はそれを無視して声を荒らげた。
「親はどうしたんです。この子らは吉村の家の子だ。神の思し召しの前に親の意思があってしかるべきでしょう」
 吉村の名前をはっきりと告げると、牧野は一瞬びくりと肩をはねさせた。嘘のつけない男だ。宮田は確信する。この男には、何か後ろめたいところがある。
「八尾さん……慶と、その子をしばらく頼めますか」
 弱弱しく言う牧野に、求導女は慈愛に満ちた笑みを浮かべてうなずいて見せた。
「宮田さん。その子を預かります」
 赤子を、この求導女に預けることを宮田は一瞬ためらったが、結局その細い腕にこわごわとしながらも赤子を託した。求導女の腕に抱かれた赤子は、すでに慶と呼ばれているらしい赤子が眠る赤子を覗き込み、手を伸ばして触れはじめると、やがて小さな目をゆっくりと開いた。さきほどのように泣きだす気配はない。片方がうなると、それにこたえるようにもう片方もうなる。原初のゆりかごをともにしたたったふたりの兄弟が、ほかのだれにもわからない言語で言葉を交わしあっているのではないかと思わせる、奇妙にのどかな光景だった。
 牧野は、赤子らの様子を幾分か哀しげにみていたが、首を振ると、教会の奥の扉のさきにある、牧野個人の居住している建物へむかってよたよたと歩き出した。宮田は牧野のあとにつづいた。

***

「失敗して、しまったんだ」
 宮田に奥に入るよう促してから扉を閉め、ずるずるとその場に座り込むと、両手で顔を覆って牧野はそう言った。失敗、が何を指すのか宮田にはわかっていた。神に花嫁を捧げる、眞魚教独特の秘祭、そのことだろう。宮田は眉をひそめた。
「失敗したから、なんだというんです」
 宮田は村の暗部をよく知っているが、儀式についてはせいぜい村民よりも少し詳しい程度だ。神の花嫁をささげる儀式については、神代と教会の領域であって宮田は立ち入ることを許されていない。
「美耶子さまは、儀式よりもまえにご神体を持って逃げてしまわれていた。いまも行方知れずだ。神王は、花嫁をむかえることがかなわなかった。この災害は天罰だ」
 すすり泣くような声すら雑ぜて言う牧野には、平素の落ち着きや悠然とした態度はかけらも見あたらない。在るのは、打ちのめされた絶望と、何かを隠匿しようとするいじましいまでの必死さだった。そのどちらも、宮田の目にはこの上なくぶざまにうつる。
「わたしはしくじった。代替わりをしなければならない、けれど、わたしは物心ついたときからずっと求導師となるために生きてきたんだ、それ以外の生き方は知らない、なのにわたしはしくじってしまった」
 牧野の言に、宮田は歯がゆくなって首を振った。
「私はあなたの泣き言を聞きに来たわけじゃない。あの子らの親はいったいどうしたんです。教会に捨てられていただなんて嘘なんでしょう」
 宮田は確信を持っていた。吉村夫妻は、間違いなく双子の誕生を喜んでいたし、教会に、とはいえ、捨てる理由など考えられない。それも、求導師の代替わりが必要とされ、宮田の跡継ぎが死んだまさにそのときに、男の双子があらわれるなどできすぎている。
「……神の思し召しとしか、わたしにはわからない」
「神の思し召しで、事情もわからない赤子に牧野と宮田の重責を押し付けようというのですか」
 宮田はつい先刻みた、赤子らののどかなじゃれあいを思い出していた。どちらが兄で、どちらが弟か、宮田にはわからないが、このままでは一方に牧野を継がせもう一方に宮田を継がせ、あの双子の兄弟を光と影に引き裂くことになる。そして、一方はもう一方の足もとに跪く。跪かせる負い目、跪く屈辱。それを、あろうことか、双子のあの二人に課そうというのか。
 牧野は身を縮こまらせてあえぐように言う。
「わたしには、わたしにはもう儀式を行う権利はない、ないが、次代を助けることならできる……慶はきっと儀式を成功させる」
「あなたは」
 宮田は、ぐうっと視界が狭まるのを感じた。あまりに手前勝手な言い分に、声が震えるのを抑えきれなかった。
「あなたは、あなたの失敗をあの赤子に贖わせようとしている」
 牧野は耳をふさぎ、叫んだ。
「黙ってくれ! 宮田くん、やめてくれ! きみにはわからない、わたしは求導師なんだ! このためにいままで生きてきた、このために、このためだけに! 神に仕え、永遠の真理を求めて、いままで、ほかのなにも求めず生きてきた! それを、こんなぶざまに終わらせたくはないんだ!」
 なにを言っても無駄だ、と宮田は悟った。悟らざるを得なかった。話し合いどころか、会話にすらなっていない。互いが互いの主張を繰り返しているだけだ。そしてどちらも、妥協する気などかけらもない。
「私はあの子を宮田として育てるつもりはない。あの子は吉村の子だ。施設にでも預けて、」
 宮田は言葉を切った。牧野が身を揺らしだしたのだ。やがて、咽喉に引っかかるような笑い声も聞こえ始め、宮田は、その声に、涼子を思い出していた。普段、穏やかな人格者である牧野と、不安定で突発的に感情が揺れ動く涼子はまったく似ていなかったが、こんなときにふたりは兄妹なのだと思い知らされるはめになろうとは。
「何がおかしいんです」
 牧野はようやく顔を上げた。上目遣いに宮田を見、嘲るような阿るような、奇妙な表情を浮かべた。いじましい、醜い表情だった。唇のはしがふるえながらつりあがり、笑顔のような表情になる。牧野は、ことさらゆっくりと言う。
「宮田くん、もう遅い。あの子らのことは、すでに神代の知るところだ」
 宮田は、背筋がふるえ、ざあっと血液が冷たく逆巻くのを感じた。
「神代は絶対、そうだろう。きみだけ逃げるなんて、そんなことはもうできないんだよ」
 牧野の顔に浮かぶ、そのおぞましいほどの喜色。嫌悪感に満ちて宮田は叫んだ。
「私に、あの子を『宮田』として育てろと言うのか!」
 村の暗部を担い、穢れ者と軽蔑され、手を血でよごしながら神代に跪いて生きる。宮田はもう、ずいぶん昔に『宮田』であることを受け入れた。『宮田』の家に生まれた者として、あるいは血のさだめとして、すでに覚悟を決めていた。その覚悟には、当然、いずれ産まれるみずからの息子や娘にこの役目を背負わせることも含まれていた。いまでも、自分の子であるならば、『宮田』の血をひくものであるのならば、それだけの理由で『宮田』の代々の罪科と重責とを背負わせることになんのためらいもない。
 だが、あの赤子は違う。
「わたしは……わたしは確かに、慶にわたしの罪を贖わせようとしているかも知れない、だが、神がそう望んだ! あの子を跡継ぎに、わたしが罪を贖うことを神が望んだ、だから慶はわたしのもとへ授けられた……神は罪深いわたしを救い給い、罪を贖う機会をあたえてくださった、わたしにもなすことができると、なすことがあると……」
 とりつかれたように言葉を並べる牧野に、宮田は歯を噛みしめ、ひと言だけつぶやいてきびすを返した。
「あなたは狂っている」

 ***

 宮田が奥から姿を現すと、求導女は赤子に向けていた顔をあげて宮田を見た。
「いい子にしていましたよ、司郎くんは」
 求導女は、ねえ、と同意をもとめるように赤子らを見る。ふたりの赤子は片割れを観察することに夢中らしく、求導女のひざの上で、その胸に頭をもたせかけ、じっと互いを見つめ続けている。
「……その子は司郎ではありません」
 それはむなしい否定だった。神代がこの赤子らのことを知ったのなら、この子らはすでに牧野慶であり、宮田司郎だ。神代は絶対、そんなことは、牧野に言われるまでもなく宮田に刻まれている。
「宮田さん」
 咎める声音で宮田を呼ぶ求導女の顔を、宮田は見返す。やさしげな顔、母のような顔をして赤子らを抱いている。その顔に不審のいろなどはかけらも見いだせない。
「あなたはなにもかもご存じのようだが、どう思っているんですか」
 求導女は微笑む。
「神の思し召しならば、したがうべきです」
「こんなことを思召す神など」
 存在するべきではない。そう言葉にするまえに、求導女がくちを挟んだ。宮田さん、あなたは。宮田は涼子を想起する。あるいは己の母、祖母、そう、『母』なるものを。
「わるい子ですね」
 微笑んだまま、残酷にそう断じて、求導女は双子の片割れに語り掛ける。
「ほら、司郎くん、お父さまがお迎えに来ましたよ」
 『司郎』が反応するまえに宮田は、求導女の腕から赤子を取り上げた。すると、『司郎』はまるでからだの一部が引きちぎられたかのように激しく泣きはじめた。宮田の腕からのがれ、求導女のもとへもどろうとする。あるいは、片割れのもとへ。『慶』は、突如あがった大音声にびくんと反応こそしたものの、ただ不思議そうに、大声で泣く片割れを見上げるばかりだった。
 宮田は抵抗する『司郎』を無理やりに抱え込み、急ぎ足で聖堂を出た。