tu paraiso, mi infierno

 父上が、このごみ山であさることのできないもの、食べものをさがしに街へでていくときに、兄上は帰ってくる。どこから? 知らない。訊いたこともない。父上がいるときには、兄上は決してこの家に近づかない。なぜ? どうして? 訊くこともできないのに、その理由を知っている。
 兄上はたまに、いっしょに来るようにと言う。おそるおそる、父上のそばにいたいというと、兄上は癇癪を起こしそうな気配を立ち上らせるけれど、ただ黙って、不機嫌に、そうかとだけ答える。そう言った日も、言わなかった日もおなじように、袋いっぱいの食べものをくれる。融けていない野菜や果物、腐っていないソーセージ、かびの生えていないパン。どうやって手に入れているのかわからない。兄上は、いっしょにごみから食料をあさっていたときとちがってけがをしていないし、おなかをすかせているようすもない。けれども、なにかしていることはわかる。手伝いたいというと、おまえはドジだから、おまえはまだちいさいから、無理だ、と言われる。お気に入りの天竜人ことばが抜けてしまったくちで、笑われる。まだちいさいかはともかく、ドジなのはほんとうだから、なにも言い返せない。ただ、兄上がまだ笑ってくれることに安心する。
 食べろと促されて、ゆっくり噛んで食べる、いちど夢中で食べてしまって、ひどいことになったのを忘れていない。兄上は、それを覚えているからか、食べるくちもとをじっと観察するみたいにして見ている。
 食べものはぜんぶ食べてしまわずに、こっそりと隠しておく。父上のために。そうすることを、兄上は気に入らないと思う。兄上は父上のことを、きらいになってしまった。でも、そうすることを、咎めずに放っておいてはくれる。だからきっと、兄上は、父上のことがだいきらいではないはずだ。だからきっと、だいじょうぶなはずだ。そう思っている。
 食べ終わって、紙袋にはなにもないようなふりをしてこっそりとベッドのしたに押し込む。それを兄上は見逃がす。だいじょうぶだ。だからだいじょうぶだ。
 どこにいたの、どこに行くの、訊きたいことはたくさんあるけれど、くちにはできない。ついてくればわかると言われるだけだ。ここを離れて、兄上とともに行くことが、なにかとてもおそろしいことのはじまりになってしまいそうな気がしている。だからいっしょに行けない。そのことをいうこともおそろしいから、ただ、なにもきかずに、くちをつぐんでいるほかない。
 あたらしいけがはないかとさぐっていた兄上の手が、すがりつくみたいに背中にまわって、耳が胸に押し当てられる。ここの音は聞き飽きた、うたってくれロシナンテ。兄上が言うので、母上がうたってくれた歌を思い出しながらうたう。ちっともうまくはない。だって、母上がうたってくれると、すぐにまぶたが重くなってしまって、ちゃんとぜんぶを聴いたことすらないから、ところどころ忘れてしまっていて、ぜんぜん、母上のうたってくれた歌じゃない。でもなんどでもうたう。うたってくれロシナンテ、兄上がそう言うかぎり、なんどでもうたうだろう。
 絶対におれたちはマリージョアへ帰るんだ。へたくそな歌声のはざまで兄上が言う。それだけが救いみたいに。ここは地獄だって兄上は言う、故郷は天国だったと兄上は言う。そこへ帰るんだと、兄上は言う。
 でも、だけど、ここがもし地獄なら、故郷も地獄だった。知らなかっただけで、ずっと知らなかっただけで、ずっとずっと、いまされているのとおなじことを、顔も知らないひとたちに強いて生きていた。故郷へ帰って、それを繰り返したいと思わない。知ってしまったから、もうしたくない。だれかを、殴るより、踏みつけるより、自分がそうされるほうがずっといい。だから兄上のように、故郷に帰りたいと思えない。そのことを、兄上に言うこともできない。おれたちは天国に帰るんだと、兄上は言う。おまえらみんな殺してやる、燃え落ちる屋敷のにおいと兄上の声がよみがえる。兄上は故郷を天国だと言う、帰りたいと言う。だから、うたうだけで、返事をしない。うたっているから、返事ができない。それをいいわけにして、ただ、時間がたって、早く大きくなって、強くなって、ここで生きていけるくらいに強くなりたいと、それだけを願っている。
 まだ、だいじょうぶなうちに。

 兄上がどこかへ帰っていって、やがて父上が戻ってくる。やせた腕に、しなびた野菜くずや、食べさし肉がほんのすこし残った骨、かたくなったパンくずを宝物みたいに抱えて、にこにこ笑っている。血をぬぐった傷跡と赤黒い痣がからだじゅうに散らばっている。額にひときわ大きな痣があって、思わず飛びついてしまう。どうしたの、だなんて訊くだけばかげている。いつもされることを、きょうもされただけだ、かつてしていたことを、きょうはされ返しただけだ。心配したってだいじょうぶだと言われるだけだ。父上は、いつまでも甘えん坊だ、と笑って、宝物をテーブルに置く。樽にためてある、腐りはじめた水にぼろ布をひたして、おまえはまだちいさいからびっくりしてしまうだろうけれど、大人はこのくらいのけがはへいちゃらなんだよ、と言う。
 ベッドのしたから袋を引きずり出して、兄上が来たことを教える。父上は一瞬、かなしそうな顔をする。父上のぶんだよ、兄上がくれたんだよ。そう言うころには、もう笑顔でかき消えてしまうくらいすこしのあいだ、とてもとてもかなしそうな顔をする。
 あの子はほんとうに弟想いのやさしい子だ、そう言って、父上は、兄上がくれた食べものをすこしだけ食べ、ああおなかがいっぱいだ、と、そう言って、野菜くずをかじりはじめる。あとはおまえが食べておくれ、ドフィがせっかくくれたものだからね。おまえはまだちいさいのだから、もっと大きくならなくては。大人は、もう大きくなったから、そんなにたくさんは食べなくていいのだよ。
 それでも父上に、無理やり、おおきなかたまりのパンだけはぜんぶ、押し付ける。パンはきらいだから。だいきらいなパンを、兄上はいつも袋に入れてくれるから。だから、だいじょうぶなんだ。
 父上の手が、ほっぺたをなでる。おまえもドフィも、ほんとうにやさしい子だ。
 そう、だから、だいじょうぶなんだ。
 なにひとつだいじょうぶなんかじゃなかったと思い知らされたのは、父上の血を頭から浴びたときだった。父上の首をさしだしてマリージョアへ帰ると言った兄上が、どこから手に入れたのかわからない銃を父上に突き付けたときには、まだ間に合うと思った。兄上を止めればいい。飛びついてでも、殴ってでも、兄上を止めればいいと。けれどそれを阻んだのは父上だった。父上が最後にやせ細った腕で抱きしめて、なにもさせてくれなかった。謝ってなんてほしくなかった。ただ生きていてほしかったのに。にぶい衝撃が父上のからだを揺らして、なにもかもが動きを止めて、崩れ落ちた。
 泣き叫んでいるあいだに、なにもかもが終わった。兄上に引きずられてその場を離れた。腕を握る兄上の、その手の、反対に、なにを持っているのか、理解したくなかった。まちがえた。まちがえた。だいじょうぶなんかじゃなかった。ロシナンテしかいなかったのに。父上と兄上には、ロシナンテしかいなかったのに、止められたのはロシナンテだけだったのに、そのロシナンテが、なんにもせずにただ見ていた。だから兄上は父上を殺し、父上はくびを、
 涙も声も出なくなったころ、兄上は「なにか」を隠すように置き、べとべとの前髪と額をぬぐって合わせた。目の端でくちが動いているのが見えるのに、声はとぎれとぎれにしか聞こえてこない。唯一ちゃんと、聞き取れたのは、かならず戻ってくるからここで待っていろ、ということばだけだった。兄上は「なにか」を抱えて、去っていった。
 兄上の姿が見えなくなってからすぐに、駆け出した。どこにもいたくなかった。だれも帰らないごみ溜めの中の家にも、崩れ落ちた父上のもとにも、忌まわしい故郷にも、兄上が戻ってくる場所にも。からだじゅうから血のにおいがする。兄上は父上をさしだしてマリージョアへ帰ると行った。兄上には帰る場所がある。帰ればいい。そのために必要なことを兄上はやってのけたのだから。なにもしなかった役立たずのロシナンテは、どこにもいる資格がない。屋敷が焼け落ちた日、痛くて苦しくて耐えられなかった。いっそ死んでしまいたかった。けれどいまは、死んでしまいたいとすら思わない。
 役立たずのロシナンテ、おまえは死ぬべきだ。