Granatapfelaugen

 血を透かして赤い虹彩が、まっすぐにローを凝視している。ななめ上からそそがれる、あまりにも一途な視線は、まるですばらしいおもちゃを見つけてしまった子どものようだった。それ以外は目に入らないとばかり、ついさきほどまでクルーたちとくだらない話をして笑い転げていたことすら忘れたかのように、まばたきも惜しんでロシナンテは、ローを一心に見つめている。
 はじまった。
 正確には、『本番』はまだ先なのだが、これが前触れとおなじなのだから、もうはじまったと言っていいだろう。それぞれのばか話に笑いさんざめき、ジョッキの酒を干しては食い物をつまんでいたクルーたちが、心なしか静まってこちらをうかがっているのがわかる。クルーたちはこれからはじまることを楽しみにしている。ローは忌々しいような気分になる。しかし、こうなるとわかっていて、酒宴の席でロシナンテの隣に坐したのはローだった。
「ロー」
 迷子の子どものような、寄る辺ない声がローを呼ぶ。すこしばかりためらいながら、ジョッキを置いてローはロシナンテを見上げる。途方に暮れたような赤い目いっぱいにローがうつっているのがわかる。ローだけが。ロシナンテの大きな手が、おそるおそる、ローのほおに触れ、たしかめるように包み込む。まるで貴重な財宝でもあつかうかのような繊細な動作が、くすぐったかった。
「コラさん、なんだよ」
 ローは、渋面をつくろうとして失敗していることを自覚する。おそらくにやけるのを無理やりこらえたような、ぶざまな顔をしていることだろう。視界の隅に、クルーたちのおもしろがっている顔が並んでいた。畜生。あすの朝には、あいつらは全員1cm角にきざんで海にぶち込んでやる。
 やがて、慎重にローのほおを両側からはさんだロシナンテは、額と額をくっつけて、それでもローをじいっとながめている。もはやロシナンテの目のなかにローの顔は見えず、ローは眼科の検診でもしているかのような気分になる。澄んだ角膜、水晶体が、急にあふれた涙液によってきらきら光った。
「おおきくなったよなあ!」
 ぼたぼた、ロシナンテの目から涙がとめどなく落ちてくる。それを顔で受けながら、「あんなに、こんなに、ちっちゃかったのによお!」とロシナンテがわめくのを見上げ、ローはただ、「何回言うんだよ」とあきれてみせる。ローのほおから片手を離してロシナンテがしめす『ちっちゃいロー』の大きさは、ロシナンテがこの話をするたびに変動し、今日は人差し指と親指がつくる輪、というかうずまきの隙間だった。ローが初めてロシナンテ、コラソンに出会ったのは10歳のころで、当然ごまつぶのごとくちいさかったわけはない。しかし、この話をするときのロシナンテは、どうあっても『ちっちゃいロー』を鶏卵よりおおきく描写してくれたことはないのだった。
「ナンテさん、キャプテンは昔病気だったんだって?」
 シャチがこの愉快な見世物を、さらに愉快にするために言葉を投げる。その言葉に記憶を誘発され、感極まったのか、ロシナンテは「そうなんだよ!」と大声をあげながら、ほおずりしていたローを胸に抱え込んでぎゅうぎゅうと締め付けはじめた。酒のせいで力加減を見失っていて、抱擁というよりは相手を(つまりローを)窒息させようとしているとしか思えない。ローはなんとか呼吸ができるように身をよじったが、その必死なようすがいかにもおもしろかったらしく、クルーたちの忍び笑いがやけにはっきり聞こえた。角切りでは生ぬるいなと気づく。いま笑ったやつら、細胞標本がつくれるくらいにうすく細かく刻んでやる。
「こーんなにちっちぇえくせによ、ひどい病気で、いっつも具合悪そうで、が、ガキだってのに、目の下にくまなんかつくりやがってよお!」
 とめどなくあふれている涙が、白いまぶたや鼻先を瞳とおなじくらいに赤く染めていく。ぬぐってやりたいとローは考えたが、その甘ったるい動作を人前、それもクルーたちの前でする覚悟が決められずにいるうちに、ロシナンテが自分の袖でぐいぐいとこすり取ってしまった。
「それがいまじゃあこんなにでっかくなって、酒なんか飲みやがって、海賊船の船長だぜ! おれァもう……」
 ぐずぐずと鼻をすすりながらそう言ったかと思うと、ロシナンテはぽかんと目と口をいっぱいにひらいてローを見た。ぐりぐりとローの頭をなで、動かし、見極めるように眺めたかと思うと、ローのほおを両手で挟んでまた叫んだ。
「なんでおまえが海賊やってんだァ!?」
 素っ頓狂な言葉と声に、クルーたちが爆笑する。ロシナンテのばか力でもみくちゃにされるキャプテンをはらはらとながめていたベポも、周囲につられて笑いだした。そりゃあんたもだよ、ナンテさん! ペンギンの茶々が飛び、笑い声が一段と大きくなる。ロシナンテはしばらく、「そういや、おれはなんで海賊やってるんだっけ?」という顔をしていたが、そのうちにひとり納得してうんうんと頷き、ふたたびローを抱き寄せた。こんどはいくぶんかやさしく。
「いいんだ、おれはおまえが元気で、生きててくれりゃそれで」
 おおきくなったなあ、おおきくなってくれたよなあ、ありがとう、ありがとう。
 言葉のあいまにほおや額にくちびるが押しあてられる。ローは、ぐったりしたふりをして、もうつかれきってなにもかも受け入れざるを得ないようなふりをして、それを受ける。目もとからほおにくちびるが落ちてきたとき、ロシナンテの金色のまつげに、涙のつぶが光っているのが見えて、それがこの世のなによりもうつくしく、尊いように思えた。ロシナンテが口の端にキスをしようとしたとき、ローはわずかに頭を動かして、くちびるにあたるようにした。これくらいのことは許されてもいいだろう。ロシナンテは思ってみなかった感触に、すぐに顔を引き、不思議そうに首をかしげたが、すぐに気を取り直してほおにキスをしなおした。