Den Steckbrief.

 どこかべつの方向を見たかと思えばかならず戻っていく視線をうかがいながら、シャチとペンギンは神妙に目くばせをしあった。彼らの冷静沈着なるキャプテン、トラファルガー・ローが、なにかに目を奪われている。ふたりが慎重に視線をたどると、たばこの煙と荒くれ者たちの熱気と料理や酒のにおいとで濁った空気のそのさきには、彼らがいまいる酒場の、若い給仕女の姿があった。まじかよ。シャチとペンギンが表情を大きく動かして自分の思いをたがいに伝えあっても、ローは気づかないようだった。
 ローはシャチやペンギン、ベポとはちがって、女に対する思い入れが薄かった。シャチもペンギンもベポも、十代なかばごろから、女というものを意識しはじめたのだけれど、ローはその思い入れについてくだらないとあきれているようですらあった。ハートの海賊団を立ち上げ、金まわりが食うに困らないていどになったとき、シャチとペンギンはよろこび勇んですこし大きな町の娼館に繰り出したのだが、ローは頑としてついてこなかった。それどころか、はじめて女の肌を知り晴れがましいような心地で朝帰りしたシャチとペンギンを、汚泥のなかではしゃぎまわった犬をみるような目で見た。ふだんの下船乗船時以上の消毒を強いられて、なんだかみじめな気分になったものだった。そのうえ、ベポは、「つがいにもならないのに、交尾するの?」などと、どこかさめたような、軽蔑しているとさえとれる目つきで言ってくるし、たたみかけるようにローは、「人間族のオスには交尾しねえと死ぬと思ってるアホがはいて捨てるほどいるんだ」とベポに説明した。
 一時期は女嫌いなのかとすら思えたほどに女への興味が薄いローが、酒場の給仕女に目を奪われている。これはもしかするともしかするのかもしれない。しかし相手が悪い。商売女ならば金をもらって寝るのが仕事だが、給仕女はちがう。酒場で働く女が片手間にからだを売っていることはありえなくはないものの、ローが見つめる給仕女はそういうふうには見えなかった。ぱさぱさの赤毛をひとつにくくって、そばかすまみれの白い肌に化粧の気配はない。色のくすんだよれよれの衣服でからだの線はみえず、客にほほ笑みかけるほどの愛想すら持ち合わせていないようだ。ときに剣呑な空気さえまじる喧噪のなかをくるくると動き回って注文を取り、酒や料理を運ぶ姿は給仕女以外のなにものでもない。これでは誘いをかけたところで、鼻で笑われるのがオチというものだろう。悪ければ大勢のまえで恥をかかされることになるかもしれない。
 キャプテン、あの女はやめといたほうがいいですよ。そのひとことをいう役が、シャチとペンギンのあいだで無言のまま押し付け合われた。どちらも自分が言いたくはなかった。もしかしたら、ローが見ているのはあの女ではないかもしれない。勘違いだったとき、ローに侮蔑まじりのあきれた顔を向けられたくなかったのだ。なにしろ、彼らは彼らのキャプテンが大好きだったので。
 そして彼らは彼らのキャプテンが大好きだったので、適当でない女にこなをかけて袖にされ、傷つくキャプテンも見たくはなかった。おまえが言えよ、なんでだおまえが言えばいいだろ、静かで騒々しい争いにも気づかずに、ローはおんぼろの椅子をきしませながら立ち上がった。
「キャプテン、どっか行くんすか」
 とっさに声をあげたのはシャチだった。声がうわずりそうになるのをおさえ、なんでもないふうに訊ねてみる。気づけばいつの間にか、ローは食事を終えたようだった。ちらっとシャチを、そしてペンギンを見て、すぐに視線はもどった。あの赤毛の女のところに。気もそぞろなようすで、どこか腑抜けたような「ああ」という答えがかえる。
「おまえらは好きにしてろ。あすの出航時刻に船に戻らなきゃ置いて行く」
「うわっ、ヒデエ!」
「絶対戻りますけど! そりゃないですよキャプテン!」
 おおげさに手を振り上げて抗議の声をあげるシャチとペンギンをかえりみることもなく、先日敵の海賊船から奪った安物の刀をたずさえて、ローはテーブルを離れた。しかし、荒くれ者たちがひしめく店内をかき分けるようにして進む方向は外へ続く扉ではなく、奥の調理場に向けて注文を叫んでいる赤毛の女のほうだった。
 ふたたびシャチとペンギンは顔を見合わせる。「どうする?」おもわずシャチがそう口にすると、ペンギンは「いやどうもこうもねえよ」と答えた。ふたりとも、視線はずっとローの背中を追っている。赤毛の女がローに気づいて、なにか言った。おそらく「注文?」とでも言ったのだろう。ローはこちらに背を向けていて、なにをいったものかさっぱりわからない。なんとなしに固唾をのんで、ふたりはローと赤毛の女のやり取りを見守っている。やかましく笑いながらのけぞったり、席を離れる客のからだや立ち込めるたばこの煙で視界は悪かった。しかし、すくなくともまだローは一発くらったわけでもないし、赤毛の女は愛想こそふりまいていないものの、とくべつに不機嫌そうには見えない。
「キャプテンってああいうのが好みなのか」
 ペンギンがそう言うのに、シャチが「ああいうのって?」と聞き返す。
「ああいうのはああいうのだろ、田舎くさい小娘みたいな」
 シャチはペンギンの説明を聞き、ローと赤毛の女がおだやかに取引しているらしい姿から目を離さないように伸びあがったり引っ込んだりしながら、「そうなのかもな」と納得したようなしないような返事をした。ローは娼館にいるような着飾った女には興味がなく、ペンギンが言うところの「田舎くさい小娘」が好みなのかもしれない。シャチとしては女は胸がでかくてきれいなほうがいいし、ペンギンもそうだと思うが、ローはちがうのかも。じっさい、ローはどんなに誘っても娼館には行かないくせに、あの赤毛の女には自分から寄っていって口説いている。
 と、そのとき、シャチにはローが赤毛の女の手になにかをにぎらせているのが見えた。おそらく金だろう。おいおいおいおい、と慌てるが、角度かなにかで見えなかったらしいペンギンはシャチの慌てようにきょとんとしている。シャチが端的に「金をにぎらせたっぽいぞ」と説明し、ペンギンがおどろきの声をもらす。あのふたりのあいだで取引が成立していたならそれでかまわないだろうが、まだ成立していない取引を金でごりおすのは悪手だろう。それに、いまハートの海賊団は駆け出し海賊もいいところで、キャプテンのローだってたいした金を持ってはいない。
 いったいどうなることかと椅子から腰を浮かせかけたペンギンだったが、赤毛の女が頷くのが見えておもわずシャチを見た。シャチもペンギンを見て、また視線をふたりにもどした。ローはあいかわらず背を向けていてみえないものの、赤毛の女はあきれたような苦笑いを浮かべてなにか言っている。そしてまもなく、ローはその場を離れて外へつづく店の扉へと歩いて行ってしまった。  出ていくローの姿を見届けずに、シャチとペンギンは顔を見合わせる。
「どうなったと思う?」
「交渉成立?」
「でも出ていったぞ」
「さすがにいまからってのは」
 ないよな? 赤毛の女は出ていくそぶりはなく、にぎらされた金はポケットにしまい込んだのか、またくるくると立働きはじめた。

 シャチとペンギンはしばらく悩んだ。しばらく悩んで、給仕している赤毛の女を呼んだ。追加の注文をしてから、さりげなく(さりげなく!)ローについて尋ねた。
「さっきさ、刀持ってる背高いやつと喋ってたろ? あれ何だった?」
 赤毛の女は眉毛を跳ね上げて、メモをポケットに突っ込みながらいやそうな顔で応えた。
「悪いけど、海賊相手にごたごたすんのはごめんだ。本人に訊けば」
 あまり悪いとも思っていないようなそっけなさだったが、当然の対応と言える。シャチやペンギンが”刀持ってる背の高いやつ”と敵対関係だった場合、なにかあったときには、情報を吐いたことについて当然恨みを持たれるだろう。
 しかし、シャチとペンギンはローのもとに集ったクルーであるので、そこは問題ないのだ。ないのだが、それをどう証明するかという話だ。
 ペンギンはシャツに染め抜かれたどくろっぽくないジョリーロジャーを示し、自分たちはハートの海賊団だと名乗り、”刀持ってる背の高いやつ”も同じシンボルを身に付けていたはずだ、と訴えた。赤毛の女の反応は芳しくなく、いちいちひとの服なんか見ない、というごもっともな返答と、海賊なのにハートなんてちょっとかわいすぎるのじゃないかという冷静な意見をよこした。ペンギンは、うちのキャプテンは心臓抜くんだぜ、と言ってやりたかったが、こんなところで虚勢を張るために能力の内容をほんの少しでも開示した、などということがローに伝わった場合にどんなつめたい目で見られることだろう、と考えてぶすくれながらも黙らざるを得なかった。
 シャチはペンギンの援護もせずごそごそとふところを探っている、と思ったら、財布のなかからガイコツユキチの描かれた紙幣をつまみだしてもじもじしていた。払うべきか、払わざるべきか。ハートの海賊団のキャプテンは謎めいていて、出会うまえのことはちっとも語ってくれない。ひとりで勝手に船を降りて放浪し、勝手に帰ってくる。その秘密の一端を、この金で握ることができるなら、それは等価以上の価値を持つのではないのか。
 それにしたって、下半身事情を知りたがっていると考えれば下世話というもので、滑稽なのだけれど、シャチはそれに気づかなかった。
 気づかなかったから、赤毛の女にガイコツユキチを差しだし、これでなにとぞ! と頭を下げた。ペンギンもシャチに倣う。
 赤毛の女はシャチの手からガイコツユキチを抜き取ると、表に裏に紙幣を確認し、納得したのか「交渉成立だ」とあまり興味もなさそうに言った。ぱあっと期待に顔を輝かせる男ふたりをどこかあきれたようなふうに見返して、女は語りはじめた。
「あんたらの船長は手配書がほしいっての。あんたら海賊は自分らの手配書見ると、喜んで酔いつぶれようとするから、ここの店主が手に入り次第壁に貼ってる。その、ふるーいやつがほしいって言うから、売ってあげた。それだけ」
 手配書だけ? この赤毛の女を買ったんじゃなかったのか? よかった、最初から「うちの船長と金で寝るんだよな?」なんて言わなくて……ふたりは汗をぬぐう思いだった。そうしてから酒場の壁を見渡すと、ずいぶん古いものから最新のものまで、ベタベタと壁紙のように手配書が貼りつけられていることに気づいた。北の海の海賊たちが駆け出しからベテランまで網羅されている。そのなかには、最近王下七武海となったために手配から外れたドンキホーテ・ドフラミンゴの過去の手配書もあった。なんというゼロの数!
 シャチがぐるぐると目を回しているあいだにも、ペンギンは赤毛の女にまだ食いついていた。
「それ、女!?」
「男。名前なんて訊かないでね、毎日壁をじっくり見るなんてことしてないから。これで情報はおしまい。満足した?」
 赤毛の女は指に挟んだガイコツユキチをひらひらさせながら、期待していないこともあらわにそう言った。シャチとペンギンは顔を見合わせ、いま得た情報と、渡した金額について思案し、
「そんなんだったら、秘密にする必要ないだろ!?」
 思わず叫ぶように言った。取り返そうとしなかっただけいさぎよいと言ってもらいたい。
「確かにね」
 赤毛の女は平気な顔で男ふたりの不満を受け流し、
「でも、秘密にしなかったら、あんたらはこの金よこさなかっただろ」
 指に挟んだ一万ベリーに音だけのキスをして、そう言った。
 確かに。テーブルに潰れながら、ふたりはさっさと給仕に戻る背中をうらめしく眺めていた。


「キャプテン、早かったね!」
 ひとりぼっちで船番をしていたベポが、メインマストの根もとから叫ぶ。ローはそれに手を振って応えた。
「飯は食ったか」
「食べたよ。でもキャプテンがこんなに早く帰ってくるなら、待っとけばよかったなあ」
 さびしがり屋のシロクマがしょんぼりして見せるので、ローはかすかに笑った。北の海のどの島に上陸するにしろ、ベポは目立ちすぎるから、いざこざを避けるために船番をやらせている。ベポも仕方がないと理解しているようだが、それでもだれもいない船にひとり残ることには慣れないようだ。
「おれは部屋にいる。なにかあったら呼べ」
「アイアイ、キャプテン!」
 ベポの声を受けて、ローは船室にもぐった。この船は少し前まで北の海で幅を利かせていた海賊団から奪い取ったものだ。小さなキャラベル、いまの少人数で航海するのはこれが限度、”偉大なる航路”へ行くのならば最低でもキャラック以上の船が必要だ。そう、”偉大なる航路”へ行くのならば、あのひとの復讐のために……
 いくらかうわの空で船長室の扉をあけたとき、手から紙が滑り落ちた。丸めていた紙はころころ転がって、壁に当たり止まった。冷静ではない、そう自覚して、紙を拾い、部屋に入って扉を閉めた。
 まだ薄明かりが差し込んでくる部屋で、ローはランプに火をともした。そうして椅子に腰かけ、紙をひらく。胸がうずいてため息がこぼれた。
「……コラさん」
 ドンキホーテ海賊団船員、懸賞金7000万ベリー、コラソン。写真はあまりよいものとは言えない。うつむき加減で、前髪とコイフとが目もとを隠している。ほんのわずか、彼が目の下に引いていたアイシャドウが見える程度だ。口には裂けたように見せる口紅。まだ火をつけられていない煙草がくちびるに挟まっている。このあと彼はあのころのように、黒いコートを燃やしたのだろうか。
 酒場で、この手配書を目にしたとき、夢を見ているのかと思った。ミニオン島で永遠に別れたひと。もう二度と会えないひと、ローの記憶のなかにだけ住んでいるひとが、生きているころに撮られた写真、手配された懸賞金。本当は海兵だったくせに、大した懸賞金をかけられて、本人はいったいどう思っていたのか。その答えをローが得ることはない。
 命とこころを救ってくれたひとのためにいったいなにができるのか、ローはずっと考えている。あのひとがおれを助けたがために果たせなかった任務を果たし、止められなかった兄を止め、救えなかった国と人びとを救うこと。あのひとが優しすぎるあまりに引けなかった引き金を代わりに引くこと。そんな恩返しのような建前の裏側に、業火のような憎しみがあって、それを優しいあのひとに結びつけることがひどい罪悪のように感じる。
 どうしておれを助けてくれたのか、という簡単な問いを、なぜあの旅の途上で訊けなかったのか。それは無私でただローのために助けてくれているのであってほしい、という甘えだった。だというのに、いまでは、理由がなかったと思うことが苦しい。なんの理由もなく、なんの利益も得ずに、死んでいったあのひとが哀しい。口惜しい、憎い、……
 手のうちにある紙を、思わず握りしめてしまいそうになって、ローは机に手配書を置いた。どうあってもローはあのひとの関わることに冷静になれない。判断が鈍る。それくらいでなければ、これまで、そしてこれからも復讐に身を投じられないだろうが、復讐に目が眩んで死ぬことだけは絶対に避けたかった。救われた命なのだ。せめてあのひとのためにだけ使い切りたい。
 壁に貼っておくわけにはいかないとローは考える。見えるところに置いておいたら、そのまえでくだらない懺悔を繰り返して一生を終えそうだ。のろのろとあのひとの手配書を丸め、机のそばのかごに突っ込む。
 それでも、ローはそのかごをしばらくじっとながめていた。