うさぎの耳
「困ったことになった」
どこか疲れたような鶴見がそう言ったのを聞き、月島は「ああ、また任務だな」と思い続きの言葉を待った。あいつを殺せとか、すでに殺したから死体を処分しろとか、こいつを陥れろとか、そういうたぐいの命令が示されるのだと思ったが、鶴見はためらうように黙ってしかめっ面をしている。何を迷うことがあるのか?
わずかに苛ついてふと目を上げると、月島は鶴見が手拭いで頭を覆っていることに気づいた。月島が気づいたことに鶴見も気づき、ため息をひとつついて「本当に困った」、そう言って布を払った。
「この通りだ、どうしようか」
鶴見の顔の横、耳があったあたりに、耳があった。いや、耳は耳でも、毛むくじゃらの長い耳が。
意味がわからない。あっちをむいたりこっちをむいたりしている白い耳(内側は淡い血の色をしている)を目で追いながら、よくわからないまま月島は適当なことを言った。
「おかしなものでも食べたんじゃないですか」
鶴見はむっとしたような顔をする。耳は大きく動いて、ぐっと下に落ちた。
「何を食べたら耳がこんなになると思うんだ?」
「知りませんが」
本当に困っているんだぞ、と鶴見が言うとき、耳はぴんと上をさしてちょこちょことあちらこちらをむく。どういう原理なのかさっぱりわからないが、少なくとも鶴見が月島をからかうために、変な毛皮を仕入れて耳に付けているというわけではない、ということだけはわかった。これは明らかにからだの一部だ。
「これでは軍帽にも隠れない」
鶴見が長い耳を抜こうとするかのように引っ張りながら言う。確かに、軍帽で長い耳の長い部分は隠せたとしても、付け根のあたりはまったく無理だろう。それに、軍帽もかぶりっぱなしというわけにはいかない。脱帽したときに長い耳がこんにちはするようではどうしようもない。
「それに、これだけではないんだ」
「……と、言いますと?」
うん、と鶴見は頷いて、黒い肋骨服の飾り釦を外しはじめた。月島はぎょっとしたが、そんなものを顧みる鶴見ではない。襦袢の釦も外してしまって、そこからあらわれたのは耳と同じ真っ白の毛並みだった。
月島はぐら、と頭のなかで脳だけが回転しているかのように感じた。
「私をからかっているわけではありませんよね?」
「お前をからかうために、耳と毛皮を調達したと?」
鶴見が両手に自分の耳をつかんで、べろべろと振ってみせる。無意味だということを表現しているのだろうか。しかし、月島には、このひとはおれを試そうとしているのではなかろうかという疑念を消せなかった。突然鶴見に長い耳が生えて胸が毛むくじゃらになっても、冷静に命令を貫徹できるか、試そうとしているのかもしれない。荒唐無稽にすぎるが、月島からすれば鶴見のやることなすこと考えること言うことすべてがそうだ。
ぐっと眉間にちからを入れて、冷静さを取り戻そうとしていると、何かが正座している月島のひざに当たった。目を開けるとそれは靴下だった。そして靴下を脱いだ鶴見の足はやはり白い毛むくじゃらだった。
「毛のうえから服を着ると、どうももぞもぞしてならん」
そう言いながら、軍袴まで脱ごうとしている。これは手伝うべきなのか、止めるべきなのか。ずる、と軍袴から鶴見の白く毛むくじゃらな脚が抜け、た、と思う直前に、確かにそこにあったはずの鶴見のからだが消えた。
「はッ!?」
音もたてずに落ちた軍袴、肋骨服に襦袢、そこに鶴見はいなかった。だが、襦袢と軍袴が重なった部分に、こんもりと盛り上がるふくらみがあった。月島はからからになった口で「鶴見中尉殿!」と怒鳴りながらぺったりと落ちた軍服をめくりあげる。
はたしてそこにいたのはうさぎだった。
全体的に真っ白で、耳の付け根、額のあたりは毛が剥げて赤っぽい皮膚が見えている。
月島が思わず手を差し伸べると、うさぎはためらうことなく指を噛んだ。そのまま離さなかったので、つかまえることは容易だった。月島はうさぎに指を噛ませたまま、ちいさなぬくいからだを抱えて、「鶴見中尉殿!」とまた呼んだ。そうすると、人差し指を噛んでいたうさぎは次いで小指を噛んだ。月島はこれでわかった。このうさぎは鶴見中尉殿なのだ。
月島は鶴見の話を真剣に聞かなかったことを悔やんだ。きっと鶴見は、うさぎになり果てる直前の貴重な時間をつかって月島に相談したに違いないのだ。月島はうさぎになりそうな人間をどうすれば人間でいさせつづけられるかなどということはまったく知らないが、もしかすると、ちゃんと話を聞いていたらわかったのかもしれない。
鶴見中尉殿。悄然とした気持ちで腕のなかのうさぎと化した鶴見を抱きしめると、鶴見は月島の指を口から外し、つぶらな黒い眼でじっと月島を見上げた。月島も何やら神妙な気持ちでうさぎを見つめた。何か訴えたいのかもしれないが、うさぎは喋らない。その目に浮かぶものをせめて読み取ろうと月島はうさぎに顔を近づけた。とたん、ものすごい蹴りが顔を襲った。月島の低い鼻を狙いすましたその鋭い蹴りは、さすがはうさぎになっても鶴見だと思わせるものがあった。
うさぎ中尉はそのままさらに二三度月島の顔を蹴り、腕のなかから飛び出すと、そのままピョンピョンと跳ねて部屋を出て行ってしまった。まずい。月島は顔をおさえながら走りだした。鶴見がいたなら、「家のなかで走るんじゃない!」と一喝をくらいそうなふるまいだったが、その鶴見がピョンピョン跳ねているのだから、何を注意される筋合いもないと月島は思った。
しかしまずい。このままではうさぎの鶴見が外に出てしまう。月島のほかにはうさぎが鶴見陸軍中尉であることがわからないだろう。そうすると、猫や子どもに襲われたり、もっと悪いことには、うさぎ鍋にされてしまうこともあり得る。月島自身は食べたことはないが、「悪くはないし、なかなかいける」という話は聞いたことがある。
月島は靴も履かないまま通りに飛び出し、そして叫んだ。
「鶴見中尉殿!!!!」
その声がものすごく響いて、月島は目を開けた。開けた? 閉じた覚えもないのに、と考え、からだを起こして、そこが兵舎の下士官室であることに気づく。何か捜していた気がする、と頭をめぐらせると、向こうの寝台で玉井が死ぬほど迷惑そうな顔をしてこちらを見ていることに気づいた。
「どうした?」
玉井はうらめしそうな目で月島を見ると、悲喜こもごもが詰まった声で「おやすみなさい」と言い、ごそごそやって向こうをむいた。月島は何が何やらわからないまま、もう一度寝台に背中を預け、一瞬で眠りに落ちた。
翌朝から、「月島軍曹が寝ながら鶴見中尉を呼びまくっていた」という話が兵舎のすみずみに知れわたったが、月島自身は鶴見の耳が妙に気になっていて、それらの話をまったく耳に入れることがなかった。