鶴見の不健康ランド

 本を手にぶら下げた鶴見が視界に入る。これはだめだ。絶対にだめだ。だが、そもそも、鯉登がこの革張りのソファに座った時点で、もはや勝敗は決しているのだ。
「座ってもいいか?」
 鯉登は思った。いやいや鶴見どん、もうその手には乗りません。わたしはあなたが本当にひどいひとだと心底理解しましたから。近くこの家を出るつもりです。どうぞ月島と仲良くやってください、わたしのことは忘れてください、わたしもあなたのことを忘れますので。
 では、さようなら。
 つまり、わたしの答えは、いいえということです。
 そこまで考え、息を吸って腹の底から、
「はいッ!!!」
 と返事をした。
「ありがとう」
 鶴見はみずみずしい花びらをふりまくかのような笑顔で礼を言い、いつものように、鯉登の隣に座った。近い。ものすごく近い。近すぎる。鯉登の首筋のあたりに鶴見の頭があって、ちょうど抱きやすい位置に腰がある。手がむずむずと動く。鯉登と鶴見のあいだにある鯉登の腕は、あいだにあればいかにも邪魔だが、手を伸ばして、腰を引き寄せてしまえば……重い蜜のにおいがして鼓動が激しく高鳴っている。
「ふふ」
 肌の白さに反した腹の黒さはよくよく思い知っているはずであるのに、鯉登はふいに聞こえたその笑いを無垢だと感じた。鶴見は小さく笑いながら本を閉じ、ほとんどゼロに近かった距離をさらに詰めた。鶴見はむずむずしていた鯉登の手をとって、腕を引っ張って背に沿わせた。鶴見の腰にまわった鯉登の手が、わずかに低い体温の手に迎えられる。なめらかに白い手が、色の濃い手の甲をさすり、手のひらを撫でて、水かきをいじられる。爪の根もとをくすぐられ、遊ぶように指が絡まる。
「あたたかいな」
 首筋に鶴見の息を感じる。鯉登の体温が鶴見にうつったせいなのか、さきほどよりも強く、鶴見のにおいがしていた。鯉登は思わず深く、鼻から肺の底に向けて呼吸をした。
「いいにおいがする」
 ため息とともに吐き出された鶴見の言葉に、考えを読まれたのかと体が跳ねる。それが鶴見自身の感慨の言葉だったと気づくと、よけいに胸がかきむしられる思いだった。あなたのほうが、よっぽどよいにおいがします、と言ってしまいそうになって、のどから妙な音が出た。
 両腕をまわしてがっちり抱きしめて、お返しに首筋のにおいをすすって、うつくしく整えられたカイゼル髭のしたにあるくちびるを思うまま貪っても許される気がした。これで「そんなつもりじゃなかった」なんて言われたら、鯉登はもう、裁判で争ったって勝てる気がした。罪状は誑しこみ罪になるだろう。愛を餌にして、青年の純情なこころとどうやったって失われない好意とを弄んで楽しんでいる罪で弾劾したい。断罪したい。懺悔したい。ああ……
 葛藤している鯉登をよそに、鶴見はあっさりと体を離し立ち上がった。思わず見上げた鯉登と目を合わせて、「月島だ」と嬉しげに言う。休日である今日、食事当番の月島は夕食の買い出しに出かけていた。玄関の扉を開ける音が聞こえる。鶴見は耳がいいから(もしくは、鯉登のように夢中になってはいなかったから)、鍵を開ける音が聞こえていたのだろう。
 お帰りを言いに玄関へ向かう鶴見を見送って、鯉登は頭を抱えた。

 月島がつくっているのは十中八九カレーだ。じゃがいもにんじんたまねぎに牛豚鶏いずれかの肉を入れた欧風カレー。月島は料理当番のたびにカレーをつくる。カレーは飽きたと言うと肉じゃがになり、冬にはたまにシチューにもなる。サラダはつかない。から揚げや温泉卵はたまにつくことがある。この家の夕食は三日に一回はカレーライスなのだ。
 普段なら「またカレーか、月島ァ」などと憎まれ口をたたくのだが、自己嫌悪に浸っているいま、鯉登は夕食がカレーだろうが肉じゃがだろうが白米のみだろうがどうだってよかった。いったいなぜ、あんなにも最高にうつくしく、しかし最低の悪い男に出会ってしまったのか、愛してしまったのか。最低だと知ったいまでも、憎んでしまえないのか……
「どしたん? 話聞こか?」
 煮込み段階に入ったのか、手があいたようすの月島がキッチンから食卓でこれ見よがしにうなだれている鯉登へ妙な口調で声をかけてくる。
「おまえこそどうしたんだ月島……」
 鯉登が訝しみながら月島を見返すと、月島はいつものスンとした無表情で、
「冗談ですよ」
 と言いながらさっさとキッチンを出て、鯉登の向かいに座った。どういう冗談だというのか、いちいち問い詰めるのもバカらしい。月島がたまに妙な言動をすること、それを問い詰めても無駄だということに、鯉登はもう馴れきっていた。口調はともかく、月島が話を聞こうと言っているのだから、鯉登は話したいことを話せばいいのだ。
 鯉登は食卓のうえに組んだ手をじっと見降ろして、重々しく口をひらいた。
「さっき、鶴見どんが引っ付いてこられて……」
 言葉にすると体温やにおい、重みまでがよみがえってくる心地がして、鯉登は居心地が悪くなった。鶴見にふれられた手をテーブルの下に隠す。鯉登が鶴見を愛していることを月島は知っている、月島が鶴見を愛していることを鯉登は知っている。同じ相手を好きな人間に、己の好意をあけすけに語ることが、どこか恥知らずのように感じられてしまう。しかし言葉は止まらなかった。
「まこてよかにおいのしっせえよお」
 鯉登は見えない粘土を見えないろくろで回しながら言う。まこて? 月島が首をかしげたのを見て、「まことによいにおいがしたと言ったのだ!」と解説すると、よけいにそのよいにおいが記憶に刻まれる心地がした。
 月島はふんふんとうなずきながら聞いていたが、やがて言った。
「いつものことでしょう」
 鶴見さんはひとに触るのが好きだし、引っ付くのが好きだし、いつも”まこてよかにおい”をさせているでしょう。月島は1mmも表情を変えずにそう言った。そう、そのとおりだ。鶴見はたわむれに鯉登に、また月島に触れることを好んでいる。大きなソファはほとんど鶴見と鯉登、あるいは月島が引っ付くためにある、そこに鯉登もしくは月島が座ることは、もはや鶴見に「触れて、引っ付いていいですよ」と許可を出しているに等しい。”まこてよかにおい”は鶴見と密着したときに香る、出どころ鶴見の謎のにおいだ。月島も当然知っている……
「なぜわれわれはここに住んでいるのだ、おかしいだろう!」
 鯉登はもう何度目か知れない疑問を半ば叫び、額と両のこぶしををテーブルに叩きつけた。

 鯉登が鶴見と出会ったのは、ピアノのコンサートだった。
 月島が鶴見と出会ったのは、配達の仕事の最中だった。
 ふたりとも、あたかもなにも知らぬまま落とし穴に足を踏み入れてしまった者のごとく、一瞬で底に沈んだ。とても這いあがれない深みに。どうにかこうにか交流をもった両者が、それぞれに、鶴見に愛を告げ、愛を乞うたとき、しばらくの日数を置いてなされたのは、鯉登と月島と鶴見の三者面談だった。これだけでも面食らうが、鶴見はその席で、「わたしは月島のことも鯉登のこともおなじくらいに好きだ」、「だから三人で住むのはどうだ?」という、ぶっ飛んだ提案だった。
 鯉登も月島も、悲鳴めいて「どちらかを選んでください!」とそれを突っぱねたのだが、鶴見は、「どちらともを選べないなら、わたしはどちらも選ばない」と言う。鯉登も月島もおなじくらいに好きだから、片方を選んで片方を泣かせるのは忍びないと言うのだ。長い睫毛を伏せ、いかにもせつなそうに、手折られた花の風情で。
 鯉登は鶴見を不誠実だと思った。しかし、それをなじって何になるのか? 不誠実だが、こうやって、すべてをつまびらかにしているのに。騙して二股をかけようというのではない、ただ、愛をちらつかせて極端な二択をせまってくるだけで……どちらを選ぶかは自由だ。鯉登次第だった。三人で、というわけのわからない提案さえのめば、鶴見は鯉登を愛すると言っている。いや、鶴見は鯉登をすでに愛していると言っている。鯉登の手のなかにすでに鶴見からの愛がある。それを投げ捨てるか、受け入れるか、どちらかを選べと言われている。
 だん、と目のまえのテーブルが大きな音を立てた。なにかと思ったら、月島と呼ばれた男がちからいっぱい水の入ったグラスを叩きつけた音だった。鶴見と月島はしばらくにらみ合っていた。正確には、月島はあらん限りの憎しみを込めて鶴見をにらんでいたが、鶴見はせつなそうに微笑んで見返していた。目をそらしたのは月島で、声を発したのも月島だった。
「じゃあおれは三人で住むってのでいいですよ」
 いいですよ、と言いながら月島の表情は了承している者のそれではなかった。むしろ、ブチ殺してやる、という表情をしていた。しかしとにかく、了承した。鶴見はにっこり笑って「ありがとう、嬉しいよ」と言い、お次は鯉登だ。黒く大きな瞳が鯉登をとらえた。
「わたしは」
 鯉登は手のひらに乗せられた鶴見の愛を投げ捨てることなどできなかった。しかし、それをだれかと分け合うこともできそうになかった。浅い呼吸を繰り返し、くちびるをふるわせながら、それでも鯉登は言葉を絞りだした。
「わたしはあなただけを愛しています、だから、鶴見さんにもわたしだけを愛してほしいのです……」
 鯉登はとても鶴見の顔を見ていられず、テーブルに目を落とした。鯉登の返答は月島をも鶴見から引きはがす返答だったと言えるが、このとき月島は鯉登のほうを見なかった。なにもかもどうでもいいという態度で、それでもこの場を去ろうとはしなかった。そのことに鯉登が思いを至らせることができたのはずっとあとになってからだったが。
「そうか」
 鶴見の声が、どのように響いたのか、鯉登にはもはやわからなかったが、ほとんど反射のように顔をあげた。断頭台の刃が落ちてくるのを見上げるような心地で、口のなかはからからに乾いていた。
「では、さようならだな?」
 たまに鯉登はこのとき鶴見が浮かべた笑みを思い出して、吐きそうになる。やさしい笑みだった。夜闇のように黒い瞳をそなえた目を少し細めて、手入れされたカイゼル髭の下でうすいくちびるがやわらかな弧をえがく。残酷な別れを告げながら、どこまでも楽しそうだった。なぜ鯉登はこのとき、鶴見を軽蔑して、見限って、嫌って、憎んでしまえなかったのか、自分を理解できないでいる。
「いやだ」
 言葉がこぼれた。鯉登は子どものように、手のひらに落とされた愛を取り上げられまいとした。捨てたくはない、分かち合いたくもない、しかし分かち合わなければ捨てたこととおなじだと鶴見は言っている。
 鯉登に選べるものはひとつしかなかった。
「わたしもふたりに加えてください」
 声は震え、かすれたが、それでも鯉登はそうと口にした。口にした瞬間から、ひどい過ちだという感覚に全身が沈みそうに重くなっても、奥歯を噛んで撤回をかみ殺した。だからこれは、すべて鯉登が選んだことなのだ、おそらくは鶴見の思惑通りに。
「ありがとう、嬉しいよ」
 礼を言って、鶴見は微笑んだ。鯉登が断りかけたときと、変わらない笑顔だった。そして告げた言葉は、月島に対するものとまったく同じだということは、そのときの鯉登にも理解できていた。

 ……そしていまにいたる。この奇妙な同居生活で得られたものは、月島との友情くらいだ。はじめは互いに鶴見を奪い合う恋敵としてそれなりにぎすぎすした関係だったが、いまとなっては鶴見誑しこみ被害者の会の仲間と言っていいくらいには近しくなった。悪いことではないが、この状況で友情を得てしまうこと自体が、鯉登にはなにかおそろしく間違っているようにも思えた。
「鯉登さんはあのひとを拒んでみたいんですね」
 月島が雑にそうまとめたが、鯉登からすればそんな簡単な話ではない。しかしいっぽうで、”そんな簡単なこと”であるような気もした。鯉登はもともと即断即決、剛毅果断の男であった。思慮がないというのではない、ただ、あらゆることを断じて行うということだ。だが、こと鶴見に関して、鯉登のこのような性質はまったくなりをひそめていた。うじうじと迷い、ぐずぐずと惑い、流されるまま諾々と生活している。
 これではいけない。どうにかして、自分自身の主導権くらいは自分で握る必要がある、というのが鯉登の考えていることだった。それは、完全ではないひとときのものであれ、鶴見への拒絶として発露しなければならないものなのかもしれない。そう、今日だって、そのためにこの生活を打ち切り、家を去ることを考えていたはずなのだ。はずなのに、現実は……
 鯉登の思考を切るように、月島が「じゃあ少し待ってください」と口にした。
「おれが百年仕込みの拒絶ってやつを見せてやりますよ」
 そう言うと月島はキッチンへ戻っていった。百年仕込みって何だ。
「大丈夫か? 月島……」
 訊いたところでどうしようもないことを、鯉登はつい訊いてしまう。月島は、このよくわからない同居生活が始まったころから、少しおかしい。落ち着いて見えるのに、落ち着いたまま、突拍子もないことを言ったりやったりする。この生活が月島を追い詰めているのか、それとも月島はもともとこういう人間だったのか、それは鯉登にはわからなかった。  月島はぼちゃぼちゃと鍋にカレールウを落としながら、何でもないことのように言う。
「おれはいつでも大丈夫ですよ」
 そうだろうか、と鯉登は考えたが、言いはしなかった。

 そして、月島が買い忘れたアイスを買いに行った鶴見が帰って来たころには、月島のカレーは出来上がり、米も炊きあがっていた。その日のカレーは辛口だった。月島のカレーはおおむね五回に四回は甘口で、一回は辛口になる。鶴見は刺激物がたいそう苦手で、辛口カレーをからいからいとひいひい言いながら食べる。からいからいと言う鶴見のために牛乳を持ってきてやるのは、辛口のだまし討ちをする月島だから、鯉登は何とも言いあらわせない気分になる。
 食後のアイスまで食べ終わった鶴見は、部屋から持ってきたらしい本をぶら下げ、”あの”ソファに座す月島へ近寄っていった。鯉登は妙に緊張してそのさまをながめていた。百年越しの拒絶だったか? 見せてもらおうではないか、そう思った。
「座っていいか?」
「はいッ!!!!!!!!!!」
 月島の大音声に、部屋のなかにあるすべてのものががびりびりと震えたような気がした。音圧にひるんだ鯉登だったが、われに返ると月島がまったく拒絶していないことに気づかざるを得なかった。拒絶どころか、大肯定。先刻の鯉登とおなじ葛藤があったかはわからないが、月島もしっかり鶴見に、「おれに触れても引っ付いてもいいですよ」と許可を出したのだ。実際にはソファに座っていいという許可しか出しておらず、そのほかについてはなんの言及もしていないのだが。
「ふ、くすぐったいぞ月島」
 月島がなにをしているのだか、鶴見がそう声をあげた。
「本が読めない」
 咎める声は甘ったるい。もっとしてくれと言っているように聞こえる。聞こえるほうがおかしいのだろうか。しかし、鶴見もソファに関する暗黙の了解をしっかり利用しているあたり、こういった言外の許可について了解しているはずなのだ。
 鯉登がそっとふたりに目をやると、とても近い。めちゃくちゃに近い。近すぎる。鯉登からはふたりの頭くらいしか見えないが、鶴見は月島の頭に頭を寄せかからせていた。鯉登が眼を放したすきに、まばたきのあいまに、キスをしていても驚かない、もはやなぜキスをしていないのかが疑問になるほどの近さ。ここから月島はどう拒絶するのか。いったん受け入れたように見せておいて、一転攻勢を見せるのだろうか。たしかに、「こうしてほしいんだろう?」と自信たっぷりに誘惑してくるうるわしい鶴見の鼻っ柱を折ることができたら、それはそれは悲痛で、また爽快であると思う。思いはする。いまにいたるまでずっとそうできていないから、鯉登はここにいるのだが。
 鶴見の頭がいやいやをするように横に振られるが、それとは裏腹の吐息混じりの声が聞こえた。
「嗅ぐなってば、もう」
 月島! なにか言え! 鯉登はそう念じた。いくら強く念じたところで伝わるはずもないが、鯉登は月島の口から、触っていないとか嗅いでいないとか勘違いするなとかそういうことを聞きたかった。でなければ、月島は鯉登が耐えていたことを半分くらいはしてしまっていることになる。鯉登がなぜそうしなかったのか、鯉登自身にももうわからなくなってきたが、拒絶はどうした? 下拵え百年の拒絶とやらは?
 結論から言うと、月島は鶴見を触ったり嗅いだり噛んだりするばかりで(そのたび鶴見は楽しそうに声をあげていた)、拒絶らしいことは何もしなかったようだった。

 湯張りが終わったというメロディを聞き、風呂に入ってくると言って鶴見が去ったあと、ふたりがいちゃついているところに意識をそそぎつづけるという気まずい時間を存分に味わった鯉登は、疲れ切った心地でソファの裏側から月島に話しかけた。
「拒絶はどうした……」
 言いながら鯉登はぐったりと崩れ落ち、ソファの肘置きにあごを乗せた。月島は鯉登のほうを見はしたが相変わらず無表情で、鯉登にはなにを考えているかさっぱりわからなかった。
「わたしにはおまえが鶴見どんを堪能していたようにしか思えなかったのだが……」
 鯉登の言葉にはどうしても嫉妬、羨望が混じった。月島がやったこと、それらは、鯉登がやりたくても耐えてきたことだったからだ。なんのために耐えているのだかもはや鯉登自身でも理解できないが、とにかくこれからもずっと耐えていくべきだと思っていたことだった。
 月島はほんのわずか目もとを緩め、きっぱりと言い放った。
「拒絶してましたよ。内心で」
「内心」
 内心は鯉登にも、というか月島以外にはだれにもわからない。
「はい。内心で十回はあのひとを殺しました」
「キエッ!?」
 鯉登は思わず悲鳴を上げた。殺した? あんなにキスしそうに近づいていちゃいちゃべたべたしながら、月島は鶴見を殺すことを考えていた? 意味がわからない。
「いま十二回目ですね。首の血管を噛みちぎりました」
「いや怖い怖い怖い! 不健康だぞ!」
 具体的な表現が出てきて鯉登は腰が引けた。鶴見を殺す? それが百年越えの拒絶とやらなのか?
「殺すというのは、人間があらわしうる最大最強の拒絶でしょう。しかしいちど殺してしまえばもうそれ以上殺すことはできないわけですから、繰り返すためにはこうするしかない。これがおれの百年仕込みの拒絶ってやつですよ。参考になりましたか」
 月島は暗い目をしてつづける。
「まあこんなことをしたっておれがあのひとを出し抜けるわけがないんですけどね。どうせおれが拒絶することも殺すこともあのひとの脚本のうちなんだ。なにをしようがおれはずっとあのひとの手のひらのうえで踊っているにすぎないんです。でもよろしいじゃないですか、こうやって愚痴ることすら所詮脚本なら、あのひとはいまごろ風呂場でおれを笑っていることでしょうよ」
 口をはさむ間もなく淡々と、理解できないことをまくし立てる月島に鯉登は恐怖を感じた。そしてまたあの言葉が口をついて出る。
「大丈夫か……?」
 月島は鯉登から目を外してきっぱりと言い切った。
「おれはいつでも大丈夫ですよ」
 鯉登にはとてもそうは思えなくなっていた。

 しばらく鯉登が拒絶とはなにかについて思いを馳せているあいだに、ほかほかと湯気をまとった鶴見が戻ってきた。白いかんばせに血色が浮かんで、この季節保湿剤を欠かさない肌は、いかにも触り心地がよさそうなつやをしている。鯉登はいつまでも止まりたがる視線を苦労して引きはがした。鶴見は鯉登が床に座り込んでいるのを不思議そうにながめてから、湯が冷めるから早く入ったほうがいいぞ、と忠告をよこした。
 そして、爆弾を落とした。
「今夜は寒いから、どちらか一緒に寝てくれないか。湯たんぽになってくれ」
 寝る? 一緒に寝る? 鶴見の部屋で? ひとつのベッドで? 寝る? しっとりと触られるのを待っているかのような肌をした鶴見と寝る? 嵐のような思考が鯉登の脳内を走り去っていった。鶴見は爆弾を投下しながらまるでそのつもりはないといったふうに、「明日の朝食はパンにしよう」とでも言っているかのように、ふつうの顔をしている。
「風呂あがったらおれが行きます」
 鯉登の思考はしかし、月島の宣言によって打ち切られた。
「うん、じゃあよろしく」
 鶴見は月島に向かって笑って頷くと、鯉登のそばに座り込んで鯉登の頬に手をあて、反対の頬に軽く口づけた。髭が肌をくすぐり、甘く感じるほどにやわらかいくちびるの感触、湯上がりの鶴見のにおい、伏せられた睫毛が落とす影。おやすみのキスだ。くちびるにずいぶん近かったが、決してそちらに近づくことはなく、すぐ離れていく。
「おやすみ、鯉登」
 うつくしく微笑みかけられても返事もできずに鯉登は、鶴見が去っていくのを見送った。やかましく走っていた鼓動と血液が鎮まってから、ソファの肘置きによじのぼるようにして、口をひらいた。
「拒絶は……?」
 月島は鯉登を見ず、ひざのうえで組んだ手を一心に見つめながら滔々と語った。
「鶴見さんはおれもあなたも一緒に寝るとは言わないという脚本を描いていたはずです。その展開を拒絶したんですよ。まあ拒絶したところでまたあのひとはべつの脚本を描きはじめるのでしょうけどね。いつもそうだ。いくらあのひとのつくった道を歩むことを拒絶しようとしても、いつの間にか線路のうえをお行儀よく走らされているんです。じゃあおれは風呂からあがったら鶴見さんのところで寝るので、鯉登さん、おやすみなさい」
 月島は立ち上がり、風呂場へと向かって行く。鯉登はその背中にこう問いかけずにはいられなかった。
「……本当に大丈夫か?」
 月島は振り返ることもなく、はっきりと言い切った。
「ええ、おれはいつでも本当に大丈夫ですから」  鯉登はそれが本当だとはまったく思わなくなっていた。
 そのあと、鯉登はしばらく、月島が入浴しているいまのうちに鶴見の部屋へ行き、ベッドにもぐりこんだなら、いったいどうなるのだろうという考えを弄んだが、自分にそれを実行できるとは思えなかった。やがて月島が風呂からあがり、あがりました、湯が冷めますよという鶴見とおなじ忠告をよこした。わかったと返事をし、月島が去る。しばらくの間のあと鶴見の部屋の扉が開き、また閉まる音を聞いた。
 ああ、この生活をつづけたら本当に本当に本当に、ダメになる。
 鯉登は頭を抱えた。