死んでも旗を手から離しませんでした

 鶴見中尉が日の丸の旗をようやく三度め、その最後として死者の丘にうち立てた。生きのびていた日本軍一同はそれぞれ声のでるかぎりの快哉を叫んだが、尾形はただひとり頂上ではなく中腹を見つめていた。尾形が後ろ頭を撃ち抜いた、異腹の弟が聯隊の光輝なる旗とともに、敵仲間に踏まれ血肉を混ぜられ伏しているはずの場所だ。時間の感覚が失せて久しい。どれほど経ったかわからない。
 やがて、隊長、小隊長たる将校らのおびただしい死があきらかになり、兵卒たちは勝ったというのに勝利の余韻をあじわうどころか、混乱に陥ることになった。それらを、生きのびた数少ない将校らや、下士たちがどうにかとりまとめて、まずは負傷者を救護し、しかるのち死者を収容して荼毘にふすと命令をくだした。
 兵卒たちは所属とはちがう聯隊、大隊、小隊の将校や下士の命令をきき、班としてまとまることもなく三々五々任務に就いた。それはあまりに甚だしく人員を損ねていたためであり、瓦解した班があったからであるが、尾形の班はほとんどの兵卒が死をまぬがれていた。しかし、兵卒たちが声をあげたり名を呼びながら好き勝手に散っていくのをさいわいにして、尾形は一直線に目星をつけていた中腹へと向かった。ほかのみなは丘のふもとを目指したから、そちらに向かうのは尾形ひとりだった。だれも眼には留めなかった。
 非常な低温で、もはや死体は凍りはじめている。皮や血肉を踏めば滑りかねないから、なるだけ服を踏んで歩く。もっとも、選べるほどには道がない。これだけさむいというのに、血と臓物と硝煙の臭気が濃密にただよい、冷気とともに鼻の奥からのどへと張り付いていく。
 死んでいるのは日本人も露西亜人もいる。この丘は死者そのものでできているかのようだ。頂上に立った鶴見中尉はみただろう。この戦いが無為だと言ってはばからず、それでも部下を率いて戦わざるを得なかったあの男は、無為に死んだ日露の若い男たちの肉片で覆われた、この丘をつぶさにみたことだろう。旗を突き立てたとき、いったいなにを思ったろうか。いつも露悪にふるまって見せるくせに、部下たちに対する過度の思い入れを隠すことのできない鶴見の、忸怩たる思いにふれられたなら、すこし愉快な気もする。
 ふと、ここだと気づいた。泥と血肉が入り混じり、軍靴で踏みしだかれた聯隊旗が死体に埋もれているのが見えた。凍っていてどうしようもない。背嚢に入れている円匙を取り出すのもわずらわしく、銃剣でやれば刃がこぼれるだろうと思い、そこらあたりを見渡して、適当に手に取れた銃のものをつかって、周囲に張り付いている血の氷を削った。さすがに現人神からたまわりしものだけはあり、布は丈夫で、泥と血脂に浸って凍っているものをひき剥ぐようにしても、たいして損なわれはしなかった。
 死体が割れる音がする。尾形はそれなりに慎重に、聯隊旗をひく。うえに重なっている死体を砕いて割り、ようやく旗竿を握りしめたままの手を見た。踏みくだかれてはいたが、その手はしっかと旗竿を握りしめていた。尾形はそのまま、手の方向に沿い、死体を削って掘りすすめてゆく。

 ハナザワユウサク ハ アニ ノ タマ ニ アタリマシタ ガ、
 シンデモ ハタ ヲ テ カラ ハナシマセンデシタ。

 旗手ほどむだな兵種はほかにないと尾形は思う。銃を持たない。軍刀のみを帯びて、子どもほどの重さのある旗をたずさえて先陣を切る。それは尾形からすれば、自殺と変わりがない。この戦いが無為だったように、花沢勇作のはたらきも無為だった。尾形はそう思う。やつが死んでも勝利した、いなくてもおなじだったはずだ。やつのおかげで弾が当たらぬなどとのたまっていた兵もいたが、それは、単に当たるものではなかったから、当たらなかったというだけだ。射手の腕が悪かったというだけのこと。
 事実、尾形の銃弾は、あやまたず花沢勇作の後ろ頭を撃ち抜き、その命を損じた。祝福されぬ者の呪われた銃弾でも、祝福された高貴な血をもち、高潔なる性情の者を殺すことは可能だった。
 上にかぶさって倒れていた一等卒のからだをくだき、地面から引きはがしてようやく花沢勇作の顔、からだまでがあきらかになった。尾形は重いからだをかかえ、凍った部位が割れる音を聞く。顔もからだも、もはや原形をとどめぬありさまで、尾形が撃ち込んだ弾痕さえどう見分してもわかりはしない。弾が当たっただろう後ろ頭も、抜けただろう額も、砕けて穴さえわからない。見開かれた片目と、かろうじて残った輪郭とが、握りしめた旗竿のほかにこの死体が花沢勇作陸軍少尉のものだと証していた。
 花沢幸次郎陸軍中将の長男にして嫡男、花沢勇作はここに死んだ。父親の望みどおり、男も女も知らぬ清らかな肉体のまま、敵すら殺すことなく、みなを鼓舞する穢れなき偶像として、花沢勇作自身の望みさえまっとうして。
 尾形は、この男について、ひどい勘違いをしていた。妾腹の子をあえて「兄様」と呼び、まとわりつくその所作は、本人の言うとおりに、幼いころから望んでいたという、兄弟を得た喜びの発露であり、尾形に対する、好意であるのだと誤認した。しかしちがった。花沢勇作は高潔な男だ、彼が嘘をついていたというのではない。ただ、花沢勇作が望んでいたのは、喜んだのは、尾形という存在以前に、兄弟であるという以前に、花沢幸次郎の胤であるということだった。花沢勇作の愛と敬慕はつねに父親のもとにあり、花沢勇作は、尾形が、花沢幸次郎に連なる者であることを喜び、祝し、愛したのだ。
 さて、花沢幸次郎なる男は、いまのいままで、尾形を顧みたことがない。いちどもない。母の死に際してさえ、弔電のひとつもなく、尾形が第七師団へ入営してさえ、なんの反応も見せなかった。花沢幸次郎は決して、いちども、尾形の生を祝福することはなかった。

 ハナザワユウサク ハ アニ ヘ アイ ヲ タマワリマシタ ガ、
 シンデモ チチ ノ テ カラ ハナレマセンデシタ。

 尾形は、いずれおとずれる結末を見たくはなかった。花沢幸次郎が尾形を拒絶し、花沢勇作がそれにならうところを見たくなかった。だからいずれ至る破綻を打ち砕いた。それは一発の銃弾、一筋の殺意、一瞬の好機でじゅうぶんだった。あるいは尾形は、なにか尊いものをもこれで失ったのかもしれない、という思いがないわけではなかった。しかし、尾形の人生はいつも、いつだって、悪いほうに転がってきた。鳥をいくら撃っても母はふりかえらず、母を殺しても父は来なかった。尾形には、どうしても、できなかった。信じるということが。いつだって、試すことしかできない。尾形は花沢勇作を三度試し、花沢勇作は、尾形を三度否んだ。これ以上は不可能だった。
 背から、尾形あ、と呼ぶ声がした。玉井伍長の声だったから、尾形はわざわざふりかえらなかった。ざくざくと地面となった死体を踏む音がして、近付いてくる。
「尾形、ひとりでなにをしてる、遺体収容よりも救護がさきだぞ」
 責めると言うには遠い、どこか気の抜けた声だった。それが、尾形のそばにある聯隊旗をみて、息をのむ。花沢少尉か、との言葉に、尾形はそのようですと答えた。残念ながら亡くなっておられます、とも。
「埋もれていたのか? よく見つけたな」
「不肖の兄を呼んでくださったのでしょう」
 尾形がそう言うと、玉井はしばらく口を閉じていたが、かがんで凍った聯隊旗を抱えようとした。それにともなって旗竿にはりついた花沢勇作の手が持ち上がるので、尾形はその指をひとつひとつ、折って引きはがした。玉井は悲痛な目をしている。
「残念だ、ほんとうに残念だ」
 首をふってそう言うと、玉井は尾形に、野間かだれかをよこすから、いっしょに花沢少尉をお連れするようにと命じて死者を踏み踏み丘を登っていった。
 花沢勇作の血が、そしてほかのだれともわからぬ血が、尾形の外套のうえで融けてしみこんでいった。しんしんとからだが冷え、疲労が重くのしかかってくる。
 もうひとつ。もうひとつ試すことができる。あの鶴見中尉の策略に乗って、花沢幸次郎に問うことができる。答えはあまりに見え透いている。それでもいつだって、尾形にできることは、試すことだけだ。何度でも、何度だって、愚かしく、ただひたすらに。
 手のうえに、ぽとりとなにかが落ち、みるとそれは指だった。小指のようだった。先刻折った、花沢勇作の指だ。弾に当たらぬ処女童貞。祝福された高潔な男。尾形はなにも考えずにそれを口に放り込み、飲み込んだ。ささやかな喧騒を切り裂いて、野間が尾形を呼ぶ声がした。