地獄の底から見上げてろ
頭を撫でる手にうとうとしながら身じろぎをすると、胸の隠しでかさりと音がし、一気に目が覚めた。そうだ、おれは今日この朗報を伝えに来たのだった。ごろりと仰向けになり、鶴見中尉殿を見上げる。鶴見中尉殿の目にはおれ以外のだれもうつってはいない。
胸の隠しから電報が記された紙を取り出し、差し出しながら、眉間を撃ちぬくような気分で告げた。
「月島が死んだそうですよ」
おどろいたようには見えなかった。動揺したようにも見えなかった。おれの差し出す紙をじっと見つめ、受け取り、ひらいて、落ち着き払って内容を確認していた。その顔を穴が開くほど見つめ、観察した。瞬くときの瞼の震え、文字を追う瞳の動き、閉じた口もと、痩せた頬。どこかにほころびが生まれないかと。
「ずいぶんしぶとかったですねえ、半年もかかるとは! もっと早くに死んでりゃ楽だったでしょうに」
鶴見中尉殿はひらいたままの紙を長火鉢に落とした。それだけで、表情もひとつも変わらなかったが、黙り込んだままの彼が哀しんでいることはわかった。傷ついている鶴見中尉殿を見るのは愉快だった。月島がくたばったのはもっと愉快だ。もう二度と、あいつが影みたいに鶴見中尉殿に付き従っている忌々しい姿を見ることはない。
このひとはおれが宇佐美を、前山を、三島を撃ち殺したときにも、こうやって哀しんだのだろうか。
ざわっと肺のあたりに気味の悪い感触がして、それをふりはらうためにもうひとつ朗報を知らせることにした。くだんの高山大佐が、そういえば、と顔を曇らせて漏らしたこと。花沢幸次郎の親友の息子の話。
「高山大佐からの情報では、ボンボンは腕と脚と一本ずつおさらばしたとか。軍人としては致命傷です。わたしの片目も似たようなものですが」
だが、あのボンボンには、おれと違ってあなたがいない。
俊足と示現流がご自慢の男が手足を失った。これほど愉快なことがあるか。おれは片目でも精密射撃ができる、だがあのボンボンは手足を失って昔と同じように動けはしないだろう。いや、そもそも、まともに動けるものかどうか? いままでの祝福された人生がすべてぶち壊しになったことを知ったとき、あのボンボンがどんな顔をしたのか知りたかった。くつくつとのどから笑いが漏れる。
「これであなたの可愛い可愛い部下は、わたしを入れても残り八人になりましたね」
地獄行きの列車は暴走したまま、函館の駅舎を突き破って海に落ちるまで止まらなかった。列車とともに沈んでいったやつらが多数、振り落とされて死んだやつらが少し、生きのびたやつらがわずか。生きのびたやつらのなかには、まもなく病院でくたばったのもいたから、生き残りと言える数は少なかった。死神はまた死体を積み上げたというわけだ。
じっとおれを見下ろして黙っている鶴見中尉殿の手をふたたび引き寄せ、鼻を寄せた。すっかり血と汗と火薬のにおいが落ちて、体臭としては奇妙な、花に似たにおいがする。以前二十七聯隊の兵舎で新兵どもが、鶴見中尉殿は花を食べていらっしゃるのだろうか、などと真剣に言いあっていたことを思い出す。花を食べていようがいまいがかまわない、おれにとって心地よいにおいがすることだけがすべてだ。あたたかい手のひらを義眼がはまった右目に乗せる。
「あなたに妻子がいたというのは本当ですか?」
ふいを突くつもりでそう言っても、鶴見中尉殿は動揺を見せなかった。
「以前、奥田閣下が教えてくださったのですよ。何でも、ほかの間諜があなたの情報を漏らしたせいで殺されたのだとか? 口の軽い味方がいて災難でしたね」
今回も、鶴見中尉殿は口の軽い味方に恵まれた。満鉄のことをおれに漏らした百姓のせがれ。あれほど鶴見中尉殿を崇拝していたくせに、いじましい嫉妬で足を引っ張った。それをボンボンに吹き込んだのに、大した成果が上がらなくて落胆した。本来ならあのボンボンがさっさとモス閣下を引き連れて鶴見中尉殿から離反し、もっと早くにこのひとを孤立させ追い詰められたはずだったのに、どいつもこいつも愚図の役立たずだったせいで無意味に時間がかかった。
その点、さっさとロシア女と娘を殺すことができた裏切りはさえている。それで鶴見中尉殿はおめおめとロシアを離れ、日本へ帰らなければならなくなった、とのことだった。失意のうちに、だったかは知らない。諜報のために利用していずれ捨てるはずだった女が予想外にくたばったところで、身が軽くなるだけだろうとしか思えない。だが、
「あなたが日本で家庭をもたなかったのは、そのロシア女に操を立てていたからですか? 若い部下をことのほかかわいがったのは、あなたのせいで死んだかわいそうな娘の代わりにしていたからですか?」
鶴見中尉殿は死者を愛している。鶴見中尉殿を傷つけるのは生きた人間ではなく死んだ人間だ。死者はこのひとの傷そのものだ。だが、これからは、どんな死者よりも、おれを見てもらわなければならない。くたばっちまったやつらなんか打ち捨てて、おれだけを。そのためにこうやって傷をえぐっている。大切にしているものをすべて踏みにじられて、それでもこのひとはおれの参謀でいるしかないのだから。
ぬるい肉をかき混ぜる幻覚を手でもてあそんでいると、伸ばした足先の向こうに、なにかが見えた。黒いなにか。黒く、長い、つやがあって、畳を踏む、あれは陸軍の長靴だ。よく磨かれた。足が入っている。視線がゆっくりとあがっていく。
「百之助」
指が頬に食い込んだ。鶴見中尉殿がおれの顔を両手でつかんだ。ぐっと覆いかぶさるように顔が近づいて、真っ黒い目におれだけが大きくうつっているのが見える。長い前髪がおりて、毛先が顔をくすぐる。
「よそ見をやめろ」
声には静かな怒りがこもっていた。
「月島だの、鯉登だの、わたしの妻子だの、くだらないものに目をくれている暇がおまえにあるか。わたしは何としてでもおまえを第七師団長に仕立て上げる。だが、おまえが死に物狂いでその座を目指さないなら、わたしがここにいる意味もないと理解しているのか」
いまにも首に手をかけて絞め殺しそうな剣呑な目を向けてくる鶴見中尉殿は、どこかそらぞらしく、彼は本当に怒っているのではなくておれがあまりに浮かれはしゃいでいるから釘を刺しているのだと感じた。実際のところはわからない。本当に激怒しているのかも。このひとはおれのことをすべて理解してくれていても、おれはそうではないのだ。
しかし、真実鶴見中尉殿がおれ以外のやつらをくだらないと言い捨てているなら、どれだけ気分がいいことだろう。
「すみません、真剣みが足りませんでしたか? ここ以外では必死にやっていますよ。片目で年増の少尉としてね」
顔をつかんだままの手に手をかさねる。
「しかし、月島はともかく、ボンボンのことは重要な情報では? やつは血筋から言ってもいずれ第七師団長になったかも知れない男でした。そいつが脱落したということは、わたしの道がより平坦になったということです」
にやにや笑ってみせると、予想していたとおりに鶴見中尉殿は冷たく目を細めた。いまだ几帳面に整えられたカイゼル髭の下で、不満そうにしているくちびるがぴったり閉じている。手を伸ばしてそこにふれようとしたが、払いのけられた。ぺちんとごく軽く、頬を叩かれる。
「これからおまえがゆくのは修羅の道だ。平坦などと楽観するな」
「わたしとあなたが、ですね」
ああ、いままでの人生でこんなに楽しかったことはない。
ごろんと転がり腹ばいになって、ひざ掛けをはぐる。なんの拒絶も返されなかったことに気を良くして長着の裾もめくってしまうと、なかから白い脚があらわれた。皮膚がやわらかくたるむひざのふくらみ。そこから薄く毛の生えた脛をたどって、脚はぶつんととぎれる。
「痛くありませんか?」
両脚は北海道にいるあいだに、銃で撃ちぬいて、ちょろまかした金塊を握らせた医者に切り落とさせた。死んだ戦友たちのために死ぬまで駆ける男だというなら、おれのためには駆けてくれないのなら、駆けるための脚を奪えばいいだけのことだ。感染を起こして壊疽や骨髄炎で死ぬ危険性はあったし、実際北海道でも東京へ来てからもしばらくは熱がつづいたが、鶴見中尉殿をとどめるためにはやらねばならない賭けだった。そしておれは賭けに勝った。すべての賭けにおれは勝った、おれは正しかった、だからおれはここにいる。
肉と皮が覆い、傷口を隠している。まるではじめから足などなかったかのように。腿をきつく縛った脛の白さ、撃ちぬいたときにぱっと飛び散った血の赤さを覚えている。脚に麻酔をほどこされても響く骨を切る振動に布をかみしめて耐える顔を、体を押さえつけながらじっくりと見た。医者に切り落とされ打ち捨てられた真っ白い足のことも。脚を持ち上げてかがみ、やわらかい断端に舌を這わせると、短くなったふくらはぎがわずかにひきつった。
「冷えなければもう痛みはない。こうやっていじりまわされないなら、なお調子がいい」
「それはよかった。今夜はわたしがあたためて差し上げますよ」
懐炉でも湯たんぽでも買ってくることを一瞬考えたが、この傷はおれがいないときには痛んでいたほうがいい。鶴見中尉殿をどこへも行かせない傷、おれのもとにとどめおく傷。それを唾液でべたべたに汚しながら、有坂中将を鶴見中尉殿に引き合わせたとき、義足をつくられないようにするにはどうすればいいかを考えた。
鶴見中尉殿はうすいため息をついて、脚からおれを引きはがした。