いえねこの仔やまねこ

 鶴見はいえねこだ。ただのいえねこではない、愛くるしいハチワレの額と真っ白い毛並みとぴんくの肉球をもつ、飛び切りかわいいいえねこだった。名前は鶴なんだか猫なんだか、けれど鶴見はやっぱりねこで、御多分にもれずうとうと眠るのが大好きだった。ぽかぽかあたたかいひなたなら最高。やわらかいベッドがあればなおよし。というわけで、鶴見は下僕が用意した、日当たりのいい窓際に置かれたふかふかのベッドで、のんびりと午睡を楽しんでいた。
 夢のなかで、鶴見はたくさんのおいしいおやつを際限なくむしゃむしゃと食べていた。焼きかつお、しっとりかにかま、まぐろのジャーキー、かじるとなかからとろっとしたおいしい味が出てくるカリカリ、とろとろのみたらしがかかったおだんご、つやつやのおはぎ、ぷちぷちするおぐらのようかん……途中からいえねこが食べられないものが出てきたが、かまいやしない。どうせ夢なのだから、現実なんて関係ないのだ。
 夢に暗雲が立ち込めはじめたのは、鶴見がおだんごをもちゃもちゃと食べているときだった。食べても食べてもなくならない。最初鶴見はそれを喜んでいたが、気づくとおだんごはなくならないどころか膨らみはじめて、あっという間に鶴見よりも大きくなって、ごろんと転がって鶴見にのしかかってきた。重い! 苦しい! 鶴見はじたばたと手や足やしっぽまで使って、おだんごを押しのけようとしたが、ぜんぜん動かない。鶴見は気づく。ああ、これは覚えがあるぞ……

 ぱちっと鶴見が目をひらくと、思ったとおり、黄土色のみっしりした毛並みが見えた。鶴見いっぴきぶんの広さしかないベッドに無理やり入り込んで、せまっ苦しくしている。そのうえ、鶴見のおなかに鼻を突っ込んで、ほんのかすかないぼにすぎない鶴見の乳首をちゅうちゅう吸っているのだ。
「百之助! こら、ちゅうちゅうやめなさい!」
 百之助と呼ばれたやまねこは、知らん顔で目を閉じたまま、ちゅうちゅうをつづける。やまねこの百之助は毛皮が分厚くて、いえねこの鶴見の爪などは刺さりもしない。唯一弱点と言えるのは鼻づらだが、しっかり鶴見のおなかにぎゅっと押しあてているので、引っかかれることはない。目は鶴見が狙うはずもない、百之助のよく見える目を、鶴見はとても愛しているはずだから。
 鶴見は百之助をぴんくの肉球でぎゅうぎゅう押しのけようとするが、うまくいかない。百之助はすごいちからで、ちゅうちゅう吸ったところで何も出てこない乳首にはりついている。
「百之助、聞こえてるだろう! 知らんぷりするんじゃない! ちゅうちゅうやめなさい!」
 肉球でほっぺをぐにぐに揉みながら鶴見は繰り返す。あんまり乱暴にできないのは、がじっと噛まれるのがイヤだからだ。百之助はいっぺんもそんなことをしてはいないが、やわらかいおなかをおさえられているのはやはり落ち着かないものだし、どうやったって警戒は解けない。だから、百之助は鶴見がのんびりお昼寝を決め込んでいるときをねらって、家に入り込んでくるのだ。起きているときだったら、鶴見だってやすやすとおなかをさらしたりはしないし、夜には下僕が帰ってくるから、やまねこなんかを家で見つけたらちょっとした騒ぎになるだろう。そういうめんどうごとを避けて、百之助は鶴見の乳を吸いに来ている。
 いや、乳じゃないな。と鶴見は思い直す。おすねこの鶴見の乳首からは乳なんて出ない。いつの間にか考えが変質していることに気づいてしまった鶴見が百之助の額をこねくり回しているうちに、百之助はやっと鶴見の乳首から顔をあげた。そして不機嫌そうな表情をして、
「鶴見さん、うるさいですよ」
 などとふてぶてしくのたまった。鶴見はちょっと怒って、乱暴に百之助の口に肉球を押し付け、おなかから引きはがしたのだが、こんどは肉球をじゅうじゅう吸う。うわあと手を引くと、百之助はぬるんとからだを動かして、鶴見のベッドをぐしゃぐしゃにしながら体勢を変え、やっぱり鶴見のおなかにはりついた。そうしてまたちゅうちゅうやりはじめる。
「やめろって言うのに。なんにも出ないぞ」
 ははあ、と、いいことを聞いたかのように百之助が笑う。
「なにか出たらいいと思ってくれているんですねえ」
 鶴見はそんなことを思ってはいないし、言ってもいない。否定するのもばからしくなってきて、鶴見はもうあきらめて、ぺちゃんこになったベッドと百之助のもふもふした毛並みにからだを投げ出して黙り込んだ。しかし、そうすると百之助はまた気に入らないようで、ちゅうちゅう吸う合間に「もういいんですか」とか「イヤじゃないってことですね」とかぼそぼそつぶやいている。さっきまで鶴見を無視して何にも喋らなかったくせに、無視されると気にくわないらしい。
 百之助がぼそぼそつぶやくとき、口をつけていた場所がぬるりと光る。そこにある、もともとはあるんだかないんだかわからなかった、いつも百之助がちゅうちゅうやる乳首は、なんだかほかと比べて妙にはっきりしているように見える。
「おまえがひとつところばかり吸うから、そこだけ大きくなった」
 鶴見がひとりごとめいて文句を言うと、百之助は 「じゃあ次から順繰りにやりますよ」
 などと言う。今日はいつもと変える気はないのか、百之助は、鶴見のおなかにある六つの乳首のうち、わずかに大きくなってしまったひとつだけを吸うことをやめなかった。鶴見は「やめろという意味だ」とあきれて言ったが、百之助は「そうは聞こえませんでしたがねえ」と知らん顔。鶴見は仕返しのいやがらせに百之助の大きな耳をもにもにと揉んでやったが、むしろ心地いいらしく、のどがぐるぐる鳴るのを毛皮で直接感じた。首を伸ばして額をなめてやり、そのままざりざりと毛づくろいをはじめる。額、後ろ頭、前脚の付け根、百之助は毛足が長いし、図体も大きいものだから、いえねこの鶴見にはずいぶんな苦労だったが、ゆったりと舌のとげでくしけずってやる。
 そのうち、百之助がちゅうちゅうやっていたのが、ちゅう、ちゅう、くらいにだんだんと間遠になり、そのうち完全に口が離れた。その代わりに、もっとやってくれと言うようにごろんと転がる。鶴見は百之助のせいでびしゃびしゃになった自分の胸のあたりの毛並みを整えてから、ふたたび百之助の毛づくろいにとりかかった。毛づくろいしてやるのは好きだ。その後に毛玉を吐くことにならなければ、もっと好きなのだが。
 親ねこが仔ねこにやるように丁寧に毛づくろいをして、百之助のおなかの横にたどり着いたとき、鶴見の頭にふといじわるな考えが浮かんだ。やったことをやり返されるのをきらう百之助に、お灸をすえる方法だ。百之助はもうぐったりと油断しきっていて、いまが好機だった。やわらかいおなかの毛をさぐって、ぽちりと見える突起を見つける。そして百之助が鶴見にしたのと同じように、鶴見はちゅうっと吸ってやった。
 その瞬間、「ふぎゃっ」だか「むぎゃっ」だかわからない悲鳴を上げて、手足をばたばたさせて、百之助が窓辺から床へ転がり落ちていった。鶴見のベッドも巻き添えに落ちていくところだったが、びっくりしすぎた鶴見がすくんだために、なんとか窓辺に踏みとどまっていた。はっと気づいた鶴見が床を見下ろす。
「おーい、百之助、大丈夫か?」
「大丈夫じゃありません!」
 鶴見は床に降りて百之助のもとへ行こうかと思ったが、声を聞いてやめた。ものすごく怒っているようだ。降りなかったところで、百之助はひょいと鶴見がいる窓辺まで上がってこられるのだが、自分から墓穴に入っていくことはないだろう。
「ちゅうちゅうやられたらイヤだってわかっただろう?」
 なるべくおだやかに、鶴見がそう言うと、体勢を立て直した百之助がおそろしい目で鶴見をにらんだ。
「子の乳を吸う親がありますか!」
 たいそう憤慨しながら、百之助はそう言ったが、鶴見は百之助を生んだ覚えはない。そもそも、鶴見と百之助が出会った(鶴見と下僕の家の庭に百之助が侵入した)ときには、もう百之助はいえねこの鶴見よりはるかに大きな成猫、成やまねこであったのだから、鶴見には百之助がなぜこうも甘ったれてくるのかあまり理解できていない。
「おまえの親になった覚えはないぞ〜」
 みんなが喜ぶぴんくの肉球を窓辺のふちから見せてやりながら、鶴見は言った。しかし、百之助はおかんむりのまま、
「言い訳はやめていただきたいですね」
 と言うばかり。もしやこれは会話が成立していない? 鶴見が首をかしげていると、百之助は今日はこれくらいにしといてやりますとばかりにため息をついて、顔をくしくしやりはじめた。気を取り直そうというわけだ。いくら気を取り直したところで、事実が言い訳にはならないのだが。
 もっと強めに拒絶しなければ意味がないのだろうか。鶴見はううむ、と考える。鶴見が百之助をかわいく思っているのもたしかだった。ちゅうちゅうやるのは勘弁してほしいが、わざわざねぐらからこの家へ来ることはいじらしく思うし、大きなからだですり寄ってくるときには甘やかしたい気持ちになる。毛づくろいして、いっしょに午睡を楽しみたいような気分になるのだ。百之助はいままでちゅうちゅうをやめたことがないから、鶴見が百之助に言ったことはいちどもない。ううむ、それが悪いのかしらん。
「何を考えているんです?」
 ぴょんと跳んで窓辺に戻って来た百之助が言う。鶴見は正直に「おまえのことだよ」と返したが、百之助は、ははあ、とせせら笑って、
「よくそんな嘘が言えますね、ねこたらしめ」
 と、吐き捨てた。鶴見が目をまん丸くしているあいだに、百之助はまたごろんと転がった。もうずいぶん傾いた西日に、百之助の毛皮がきらきらした。ねこたらしって。いったいどこでそんな言葉を覚えたのだか、何を見て鶴見をそう評したのだか、鶴見にはさっぱりわからなかったが、陽が沈んで百之助が鶴見用の玄関扉から去っていくまで、そして下僕が帰ってくるまでにもうあまり時間がないからと理由をつけて、それまでは毛づくろいでもしていえねこの仔のつもりでいるこのやまねこを、甘やかしてやろうと決めた。