けものに愛など語れはしない

 うすい背に己の胸をはりつけ、腕でそのからだを捕らえて、首すじに巻き付き到達をはばむ、鞣された革に歯を立てる。何層にもかさなった厚い装具は、あふれる唾液を吸ってもうだいぶ軟い。にじみ出る嫌な味を舌に感じながら、それでも離すことができない。重く甘い、花のにおいがする。濁った、獣じみた音がのどを震わせる。いらだちがつのり、限界までくちをひらいて、革の壁ごともとめる場所を歯と歯のあいだにおさめてしまう。しかし、ギチリと犬歯を立てても、革をつらぬくことがかなわない。
「こら、鯉登ぉ」
 声とともに伸びてきた手の、指が、鯉登の歯と革のあいだに入り込んでぐいとくちを開かせた。ほんとうならば抗いたいのだが、やわらかい指の腹を犬歯のさきに押し当ててくるから、ちからの入れようがない。傷つけてしまう。傷つけたくなどない。鶴見はそうしてくちを開かせたまま、鯉登の腕のなかでふりかえる。
「どうしてガリガリするんだ? ガリガリやめなさい」
 鶴見はそう言いながら、指でたわむれるように歯のおうとつをたどった。その指さきからもかぐわしい花のかおりがする。唾液があふれてたまらない。このひとがほしい。私だけのものにしたい。そうするすべを知っている。なぜそうしてはいけないのかわからない。こんなにも花のかおりがしているのに。
 くちのなかにある指を吸う。舌を焼く蜜のような味がする。その甘さを味わいながら鯉登は、私のものだと思う。私はあなたをこんなにも求めている、だから、私はあなたを賜わるべきだ、あなたは私のものであるべきだ、そして私はあなたのものだ。舌でくるんでいた指が、ずるりと抜かれていく。思わず舌を伸ばして追いかけると、鶴見がうすく笑った。
「甲の哀しいさがだなあ」
 とっさに反発が胸をさす。甲、そして乙は、おとことおんなというほかに、人間が持つもうひとつの性のことだ。けものの性とも呼ばれ、たがいのにおいによって発情をうながされ、ひかれあうという特徴がある。甲の性をもてば、おんなであってもおんなや乙を孕ませることができ、乙の性をもてば、おとこであってもおとこや甲との交合によって孕む。そして、甲は首を噛むことで、乙を番いとすることができる。
 鯉登は鶴見のいうとおり甲で、乙である鶴見の放つにおいに発情している。けれども、それが鯉登の想いのすべてだと、鶴見に思われたくはなかった。生殖のために、あるいは性欲のために、それらのためだけにあなたを慕っているわけではない、あなたが乙であるからではない、あなたがあなたであるから、私はあなたを愛するのだ。私はあなたを愛している。
 しかしそれを証するには、己の衝動が邪魔をする。においに惑わされ、こうして噛みついておきながら、どのくちで愛など語れようものか。これはただの性欲だ。あさましい獣性だ。鯉登は愛しているとうそぶきながら、鶴見が望まぬことを強いようとしている。それが口惜しい。けものの性さえ持たずにおれば、ただ純粋に、このうるわしいひとを愛することができたのだろうか。
 甘いにおいに耐えきれず、鯉登はふたたび鶴見の首すじにくちをよせた。鶴見の首に巻かれている装具は、名前は忘れたが剥製師で革職人の男がつくった「甲」よけのものであるという。軍服の詰襟に隠れる程度の太さで、甲の番い噛みを防ぐほどの厚さがある。なるほど中尉殿の安全に寄与しているすばらしいものだと冷静な頭は思う。煮えたっているけものの脳は、この忌々しい装具もつくった職人とやらもずたずたにかみ砕いてしまいたいと唸る。
 けれどもこんどは噛みつきなどせずに、縋りつくように鶴見のからだを引き寄せ、ただ首すじに鼻先を擦り付けてそのにおいを味わった。肺までも甘く染まるような、みずみずしく湿った花のにおいがする。鯉登は草花などという益体もないものを好みはしないが、鶴見からするこのにおいには夢中だった。花のかおりと蜜にひきよせられる、蜂か蝶のような虫にでもなった心地がするほどだ。
 ふう、と頭のうえからため息が落ちる。それだけで、鯉登の心臓はぐっと縮まり、冷たくなる。鯉登は鶴見を尊敬しており、崇拝しており、ほかのなによりも愛している。失望されたかとは、考えるだに苦痛なほどだ。しかし、かかった声はにおいとおなじく甘かった。手のひらが鯉登の髪を撫でて、鶴見が諭すように言う。
「私はもうこの年だから、おまえの子を孕めはせんのだぞ。万がいち孕めたとして、状況がそれを許さん」
 つづく、あまり私に拘泥しすぎるなという言葉は、耳には入らなかった。
 孕む、それはおそろしいほど甘美な言葉だ。鶴見が鯉登の子を孕む。鯉登は甲、鶴見は乙、ありえない話ではない。鶴見の言う通り、年齢という障害があり、また、鶴見のゆく道は腹に子をかかえてすすめるほどに平らかな道ではない。けれど、可能性だけで、鯉登は脳や心臓がしびれるような思いがする。このだれよりもうつくしく、尊いかたの首すじに、血がにじむほど歯を立てて、私だけの伴侶にする。その腹で、私の子を孕み育ててもらう。ぞわぞわと興奮がこみ上げる。
 しかし、やはり、それはけもののさがだ。
 ふいに目のまえを曇らせた涙を、鶴見の指がぬぐってゆく。きっと鶴見には、満たされぬ獣があわれだという思いしかないのだろう。それを思うと、余計に涙がこぼれた。