見よ、世は光にて満てり
視線をめぐらせて、もとめる姿がないことにもはや溜息も出ない。クールダウンを終えた体を引きずるようにして歩きながら、黒子は、かぶったタオルで口元をおさえ、疲労からくる吐き気を噛み殺す。
今日もいなかった。昨日もいなかったし、一昨日も、そのまえも。たぶん、あしたもいないだろう。
青峰は、もうずっと、練習に顔を出していない。
唐突に開花した青峰の才能は、周囲を引き離し、彼自身を引きずって、すさまじい勢いで疾走していた。だれもかれも、青峰に届かない。試合はいつも圧倒的な点差で終わり、ほとんどの相手校の選手たちは、試合が終わるよりもまえに、自分たちが「終わってしまった」ことを悟って戦意をなくした。
『青峰君よりすごいひとなんて、きっとすぐにあらわれます』
無責任に放ったその言葉は、いまに至ってさえ、そらぞらしく響いていた。気休めにすらならないその言葉で、たぶん黒子は、青峰を絶望の淵へ追いやった。黒子を信じて、ほんとうに本気を出したあの試合のあと、青峰は、もう手を抜いた試合しかしなくなった。当然のように、練習にも来ない。それでも、青峰は他を圧倒しつづけていた。
黒子には、青峰の気持ちはわからない。それは当然のことだ。周りについていくことにすら精いっぱいの黒子が、周りを引き離していく青峰の気持ちなどわかるはずがなかった。それでも、身勝手な想像を、することだけはできた。わきあがる胸のわるくなるような虚無感を、あるいはそれよりもずっとひどいものを青峰がつねに抱いているのだとしたら、いまの青峰がしていることはすべて、仕方がないと言うべきなのかもしれなかった。
だけど、と黒子は思う。いまの青峰の、練習にも顔を出さない手を抜いたプレイは、絶対にただしくなんかない。まちがっている。少なくとも、青峰には、黒子がバスケを続ける理由と意味をくれた青峰にだけは、そんなプレイをしてほしくない。
こぶしを強く握り、顔をあげたさきに、人影があった。とくべつ背が高いわけでも、体格がいいわけでもないのに、奇妙な威圧感を放つその背中。黒子は駆けよって、声をかけた。
「赤司君」
赤毛が揺れ、赤司が振り向く。黒子をみとめるとすこしほほえんだようだったが、それが単なるならいのようなものでしかないことを、黒子はよく知っていた。
「黒子か、きょうも残って自主練かな。戸締りは頼むよ」
「はい、そうなんですが、それだけではなくて……その」
黒子は、すこし言い淀んだ。青峰が練習にこない、昨日もきょうも、そして明日も来ないだろうということを、赤司に訴えてなんになるだろう。主将である赤司が、レギュラー、それもチームのエースが練習に来ていないことなど、知らないはずがない。それでも問題にしないのであれば、赤司にとってはそもそも問題などではないのだ。わかりきっているだけ、黒子は言うのをためらった。
「青峰のことか?」
黒子は落ちていた視線をあげた。赤司が、はるかな高みから見下ろすようにして、目を細める。
「最近、練習には来てないみたいだが、なに、問題はないさ。あいつは天才だ。おまえが心配する必要なんてないよ」
瞬間、心臓が空っぽになったような感覚がした。立ち去ろうとした赤司の腕をつかんだのはほとんど無意識だった。赤司はやや不快そうにつかまれた腕を見る。黒子ははなさなかった。
「どうしてですか」
怒りとも、かなしみとも、あるいは失望ともつかない、それらすべてに似たものが心臓を熱く冷たく満たしていく。
「なにがあっても、勝てば、それでいいんですか」
「そうだ」
赤司の双眸が黒子を射る。
「勝負の世界において、勝つことが至上の意味をもつのは当然のことだろう」
そんなものではない。黒子がもとめるものも、めざすものも、そんなものではなかった。チームのだれにとっても、そんなものではないと思いたかった。勝つこと、それだけをめざして試合をするのならば、それは、それでは、
黒子はうつむきそうになる顔を必死にもちあげて、言葉を絞りだす。
「それでも、勝つこと以上に、意味のあることが、あるはずです」
言いながら、言葉のあまりの空虚さに吐き気がした。いつか、青峰に対して吐いた言葉とおなじだ。おなじ味がする。
勝つこと以上に、意味のあること。噛みしめるように赤司がくりかえした。
「……黒子はおもしろいことを言うね」
赤司が、嘲笑をくちびるに浮かべる。
「それを信じたいのは、おまえが弱いからだろう」
とっさに言い返そうとした黒子はけれど、口を開いただけでなにも言うことができなかった。勝つこと以上に、意味のあること、それを黒子は信じたい。勝たなければすべて無意味なのだと思いたくなかった。
「ぼくは、」
「思い上がるなよ、黒子」
赤司は、聞き分けのない子どもをいつくしむような目をして、黒子を見おろしていた。
「他者に頼らなければだれにも勝てないおまえが、どうして僕や青峰に間違っているだなんて言えるんだ?」
黒子はつかんでいた赤司の腕を振り払うようにしてはなし、後ずさった。指先で黒子の手のかたちがうっすら残る腕を撫でて、赤司は言った。
「鍵は部室に置いておくから、戸締りは頼んだよ」
黒子の返事を待たずに、赤司は、なにごともなかったかのように去っていった。じっさい、なにごともなかった。黒子は、なにごとも起こせなかった。
手がきしみそうなほどに強く握って、黒子は吐き気に背をふるわせた。吐いてしまいたい。なにもかも吐きだしてしまいたい。けれど、吐きだすものなど黒子のなかにはなかった。空っぽだ。悔しさは薄っぺらくて、怒りは身勝手だった。
黒子はのろのろと顔をあげ、きびすを返した。
***
体育館の扉の外で、黒子は立ち尽くした。なかには青峰がいた。練習着に着替えることもなく、制服のまま、足もとなどは外靴を脱いだだけでよく滑りそうだ。ボールの弾む音が静まりかえった空間に響く。
なかには、青峰のほかにだれもいなかった。しばらくまえまでは、自主練をする部員たちがたくさん残ったのだけれど、ひとり減り、ふたり減り、やがてだれも自主練などしなくなった。だれもが、青峰や、黄瀬や、緑間、紫原、そして赤司の、急激な才能の開花に失望したのだ。だれもが。
青峰が、つまらなさそうに、さして狙いもさだめずに投げたボールは、それでも、吸い込まれるようにゴールネットをくぐる。次も、そのつぎも。ゴールネットをくぐったボールは、どういう投げ方をしているのか、まるでよく馴らされた犬のように、青峰の足もとまで戻ってきていた。それを受けとめ、また投げる。
青峰の大きい手のひらで、命を吹き込まれたようにたのしそうに、ボールがおどる。弾む音さえうれしげに、ゴールネットはボールが飛んでくるのを待ち望んでいるようにみえる。ただひとり、それをつくりだしている青峰だけが取り残されている、ほとんど悪夢のような光景だった。
「テツ、いつまでそこにいんだよ」
声をかけられてようやく、立ちすくんでいた黒子は、正気にかえった。なにも言うことができずに、ふらふらと歩いて扉を越えた黒子のようすに、青峰は、おまえまじで体力ねえな、と言った。いつか、おなじ言葉を聞いたけれど、そのときのような笑いもあきれも、すこしも含んでいなかった。冷ややかな失望とあきらめが、奥底にかすかに響いていた。黒子はぞっとして、脚をすくませる。
言いたいことが、いくつも浮かんだ。どうしてきょう練習にこなかったんですか、いまさらだ。これから自主練につきあってもらえませんか、なんの意味がある。ぼくがかならずきみに追いついて、きみを、だから、なんてひどい嘘だろう。
「なにをしに来たんですか」
口を突いて出たのは、黒子の思いつく限りで、もっとも意味がなく、むだな言葉だった。なぜかどうしようもなく、視線が落ちて、黒子は自分のバスケットシューズのつま先のすこし先の床をじっと見つめたまま、顔をあげられなかった。頭にかけたタオルが陰をつくって、黒子にはもうなにも見えない。
「べっつに。なんとなく」
淡々と、青峰は言った。
「わり、邪魔したな。もう帰るわ」
黒子がいる場所とはべつの出入り口に向かうしずかな足音と、ボールが床で弾む音に、黒子はタオルの陰から青峰をうかがった。制服に包まれた背中が、おそろしく遠い。
追いかければいい、すこし前まであたりまえにしていたように、知らぬ間に後ろに立って、驚かせてやればいい。一瞬、そんな考えが頭をよぎったが、すぐに打ち消した。たぶん、いまの青峰は、黒子の気配に気づくだろう。皮肉なことに、いや、むしろあたりまえのことだがと言えばいいのか、青峰の才能が開花し、青峰と黒子の距離がひらくようになってから、青峰は黒子を見失わなくなった。いまでは黒子が、青峰を見失ってしまっている。
青峰が思い出したように振り返って、手でもてあそんでいたボールをゴールに向けて投げた。そのとき、立ちすくんでいたあいだにぼんやりと願っていたことが、ゆっくりとかたちを成すのを感じて、愕然とした。それろ、はずれろ、はいるな。それはすくなくとも、チームメイトの放ったボールに対してねがうことではなかった。けれど、そうでなければもう、黒子が影として、青峰の相棒として隣に立つ理由がないのだ。そのことに、愕然とした。
ボールは当然のように、ゴールネットをくぐり、はねてから、黒子の足もとまで転がってきた。かがんで、拾い上げると、黒子の手のなかで、それは死んでいるように見えた。
黒子の背中を、遠ざかる青峰の足音がたたく。もはや目をそらすことも避けることすらもかなわないほど、目のまえに、破綻が迫っていることを知った。