肥えた初子と土の実り

創世記4:8
カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。

***

 なんてひどい兄貴だろう、と、憤ったことを、よくおぼえている。

 大我の両親はクリスチャンではなかったが、アメリカにいるあいだに数度、大我をつれて近所の教会でおこなわれる日曜礼拝に参加したことがあった。理由は知らない。だれかに誘われたのかもしれないし、単なる興味だったかもしれない。あるいは、幼い大我に、信仰というものの存在を教えてやろうとしたのかもしれなかった。聞いたことがないのでわからない。
 静まりかえった礼拝堂にひびく牧師の話は、なるほどな、と思うこともときたまありはしたが、おおむね退屈だった。理解できることより理解できないことのほうが、ずっと多かった。だいたいの場合、大我は、礼拝が早く終わることを願いながら、それからするバスケのことばかり考えていた気がする。
 しかし、ある日の牧師の説教は、いたく大我の気を引いた。朗々とした声で語られた聖書の一節は、兄が弟を殺すというものだった。

『カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。』

 なんてひどい兄貴だろう、と、憤ったことを、よくおぼえている。
 そこへ至るまえの話をちっとも聞いていなかったから、大我はいそいで、教会から貸しあてられた聖書をめくってその話を読んだ。そうしてまた腹が立った。そんなことで、と思ったのだ。ただ、自分の捧げものが受け取ってもらえず、弟の捧げものがよろこばれた、それだけのことで、この兄は弟を殺した。
 続いている牧師の説教など、もはや大我の耳には入らなかった。大我には『兄貴分』がいる。血なんかすこしも繋がってやしないが、それでもふたりは兄弟だった。だから大我は、そのふたりの兄弟の話に、奇妙に感情をうつしてしまっていた。
 大我の『兄貴分』のような兄がいるというのに、そのいっぽうで、聖書に出てくる兄は、わけのわからない嫉妬で、弟を殺してしまっている。なんてひどい兄だろう。
 きっと、弟は、兄に野へさそわれたとき、なんの疑念も懐かなかったはずだ。大我がそうするように、兄に呼ばれたことをよろこび、いさんでついていったかもしれない。
 なぜ、この話の兄は、そんな弟を殺せたのだろう?
 怒りとともに胸にのぼったその疑問には、ついに答えを出せなかった。

 その話を兄貴分――辰也にすると、「ああ、カインとアベルの話だね」となんでもないことのように言われた。それ以上なにも言わず、流した汗をおぎなうようにスポーツドリンクを飲む辰也に、大我はなんだか不満を感じた。辰也は、大我のように思いはしないのだろうか。
「この話の兄貴、ひどくねえか。べつに弟、わるくねえのに、殺しちまうなんて」
 力を込めていう大我に、辰也はペットボトルから口をはなした。大我に顔を向け、首をかしげる。不思議そうな顔をしている。
「ただのお話だろう、タイガはなんでそんなにむきになってるんだ」
「べつにむきになんかなってねーよ」
「なってるじゃないか」
「なってねーよ!」
 むきになっていく大我の言を、辰也は笑って適当に流し、たしかに、と言った。
「ひどい兄貴だ、弟は災難だな。でも、」
 辰也が笑みを消して、ゆっくりと、なにかをさがすように視線をさまよわせる。すこしの間のあと、辰也の口がひらいた。
「……神さまは、どうしてカインの贈り物を受け取ってくれなかったんだろう」
 辰也は、だれに問うともなく、そうつぶやいた。その視線は居どころをさだめて、まっすぐ、なにかを見つめていたが、その視線を大我がなぞっても、さきにはボールがころがっているだけで、なにもなかった。
 大我は考える。そこの、どうして、は、考えていなかった。神が、贈り物を受け取らなかった。そもそも、それが発端なのだけれど、見落としていた。アベルの贈り物にあって、カインの贈り物になかったもの。頭を抱えて、めずらしく真剣に考えて考えて、
「…………肉が食べたかったから?」
 それぐらいしか思いつかなかった。辰也はすこしのあいだ目をまるくして、せわしない瞬きをくりかえしていたが、やがてあきれたように、神さまはおまえとはちがうよ、と笑った。

***

創世記4:3-4:5
『カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。 アベルは羊の群れの中から肥えた初子を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、 カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。

***

 昔のことを思い出したのは、倫理の授業の最中だった。初老にさしかかったじいさん教師の、横すべりする講義が、あの兄弟の話に至ったのだ。机に突っ伏してうとうとしていた大我は、急に冷水を浴びせられたかのように目を覚ました。無意識に胸のリングをさぐる。
 語られる物語は、兄が弟を殺す話だった。幼いころに教会で聞いたものと寸分変わりないのに、大我はもはや、ひどい兄貴だ、とは、言えなくなっている。
 弟は、自分の捧げものが受け入れられ、兄の捧げものが斥けられたとき、なにを思ったのだろう。怒りと屈辱に顔を伏せる兄を、かえりみることはなかったのだろうか。呼ばれるままに兄のあとを追い、至った野原で、兄に殺されるとき、弟は、兄を憎んだだろうか。
 なぜ、この話の弟は、目にとめられなかった兄の捧げものを、顔を伏せる兄の屈辱を、自分に向かう兄の憎しみを、なにもかもを見すごしていられたのだろう。
 なんてひどい弟だ、と、伏せた机のうえで泣きそうになったことは、たぶんこのさきずっと忘れないだろう。
***

創世記4:6-4:7
主はカインに言われた。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしおまえが正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、おまえを求める。おまえはそれを支配せねばならない。」

***

 まだあたらしい聖書をひろげて読みながら、おれはよくよくこの話と縁があるらしい、と氷室はいまいましいような、それでいて奇妙にさめた気分を噛みしめていた。
 陽泉高校は、キリスト教に基づき設立されたミッション系の高等学校であり、当然ながら、カリキュラムのなかに礼拝やキリスト教をまなぶことがふくまれている。それは氷室も知っていたし、そのことについてはどうということもない。
 ただ、学期のまとめの課題として、よりにもよって創世記の第4章がえらばれたのは、なにか、うんざりするものを感じずにはいられなかった。チャプレン、聖書はこんなに分厚いんだから、ほかの章だってよかったでしょうに。
「室ちん」
 大きな手が視界の端からにゅうとのびた。机にすがるようにして、ベッドのうえで寝そべっていた体がゆっくりと起きあがる。いつも眠たそうな、不機嫌な目つきをした後輩が、机の端にあごをのせて、いつもより不服そうな顔をして言う。
「いつまでやってんの」
「終わるまでだよ」
 そばによってきた紫原の頭を、とくに意味もなく撫でてやりながら、氷室は言った。紫原は、氷室の手のひらを厭うでもなく受け入れながら、室ちんはまじめだねえ、とすこしもそう思っていなさそうな声を出す。
「早く終わらせてよ」
 大きすぎる子どものわがままに苦笑しながら、じゃあアツシもいっしょに考えてくれるか、と訊ねてみる。この後輩が、どういう答えを返すのか知りたかった。
 いーよ、と軽く請け負う紫原は、机にあごを乗せた体勢のままで、ほんのわずか居住まいをただして、氷室の話を聞く姿勢をつくったようだった。
 氷室は、何年もまえに発した問いを、もういちどくりかえした。
「どうして神さまは、カインの贈り物を受け取ってくれなかったんだと思う?」
「んー? んー……」
 紫原が、唸りながら、きちんと考えているようだったのが、氷室には意外だった。どんな答えにしろ、紫原なら、即答すると考えていたからだ。
 氷室は、もうこの問いに答えを出してしまった。あのときはあきれただけだったけれど、火神の言うとおりだった。神さまは肉が食べたかったのだ。だから、たとえ苦労して収穫したものであろうと、土の実りなどいらなかった。神さまも世界も、そして自分自身すらも、結局は理不尽きわまりないものであって、それを受け入れて生きるしかないのだ。そういう教訓だと、あれからしばらくして氷室はまなんだ。理不尽を受け入れることと、あきらめることはちがうはずだと信じながら。
 氷室が沈思しているあいだにも思案していたらしい紫原は、やがて、顔をしかめたまま、口をひらいた。
「知んない。わかんない。かみさまの気持ちなんてわかるわけねーじゃん、あほらし」
 めんどくさーい、とひと声あげて、紫原はふたたびベッドに沈んだ。
「あれだけ考えて、結論がそれか」
 氷室はあきれたが、めんどうくさがりの紫原が、いちいち考えただけでもたいへんな譲歩だということはわかっていた。おれ手伝わないけど、早く終わらしてね。ひと寝入りする気らしく、ブランケットと枕をととのえはじめる。わがもの顔だが、そこは氷室のベッドだった。ひとのベッドで菓子を食べるなという言いつけを、拍子抜けするほど忠実に紫原が守るので、そのほかに関しては、すっかり許してしまっていた。
「終わったら起こすから、ちゃんと起きてくれよ。おれの寝る場所がなくなる」
「うーい」
 氷室は課題に向きなおる。ペンをくるくるとまわしながら、氷室にとっての理不尽の体現ともいえる、ふたりの答えをぼんやりと思いかえした。火神は問われた答えを出した、紫原は問われても答えを出さなかった。ちがいはあれど、彼らはおなじだ。彼らにはこんな問答も教訓も必要なかった。彼らは選ばれたのだから。
 この問いに、答えを出さなければ生きられなかったのは、おれだけだ。
 そういえばさあ、となにかを思いついたように紫原が声をあげる。眠ったとばかり思っていた氷室は、おどろきでペンを取り落としそうになったがぎりぎりでこらえ、声を落ち着かせて、どうした、と訊ねた。紫原は、んー、と眠たげに唸った。
「そいつ、かいん? おとーとを殺したんだっけ」
 思い出そうとしているのか、指先でくるくると円を描きながら、紫原が言う。氷室がそうだと答えるまえに、言葉はつづいた。
「なんでそいつ、おとーとじゃなくてさ、かみさまを殺さなかったの?」
 へんなやつ。
 底の底まで見とおせそうなほど澄んでいるのに、なにを考えているのかを察させない、断絶した幼い光をやどす瞳を見つめながら、氷室は、さあ、わからないなと嘯いた。氷室はふと、手に握ったシャープペンシルの鋭い先端を、紫原の瞳に突き刺してやりたくなって、紫原が机から離れていたことに感謝した。