おろかもののこいぶみ

 暗い部屋の、めったに使われることのない机のうえに、ひとつきりのちいさなともしびが揺れている。そのあかりのもとで、リヴァイはほとんど机の上に顔を貼り付けるようにして、紙に字を彫り込んでいた。インク瓶からペンにインクをすくい取り、ときおり紙をつきやぶりながら記すさまは、書くというより、彫るというほうがずっと近い。
 指をペンに喰い込ませながら記す文字は、おおよそうつくしいとは言いがたかった。むしろ、いびつで、読みにくい、不親切な文字だった。ひとによっては、読めない者すらあるだろう。しかし、この文字を宛てる相手が読めることを、リヴァイは知っていた。

 "たいようが ひかる きんの かみ"
 "おまえの ぬは あおぞらに みえる"

 リヴァイは、字の読み書きを、調査兵団に入団してから学んだ。それ以前には、リヴァイにとって文字とは、地上の者たちがつかう、なにかわからない模様でしかなかった。それでも不自由はなかった。なにしろ、地下では、字を読めるもののほうが、読めないものよりも、ずっとめずらしかったのだ。
 調査兵団に入団したあとも、リヴァイは、文字など読めなくとも、書けなくとも、兵士として巨人を屠ることにさわりはないと考えていた。いや、考えていた、という積極的なものではなく、地下から地上へ、文字のあふれる世界へやってきても、それらを知る必要があると感じられていなかった。じっさい、訓練をし、喰い、寝て、生きていくために、文字などは必要がなかった。

 "おまえの かみが あかりで ひかるのが すきだ"
 "おまえの めが まえを みるのが すきだ"

 字の読み書きができれば、生きていくのに便利だと言って、リヴァイを椅子に縛り付け、頭に知識をねじ込むようにして文字を教えた男がいなければ、リヴァイはいまでも、文字を読むことも、書くこともできなかっただろう。歳をずいぶんと長じてから得た文字の知識は不完全で、文字の向きをまちがえ、文字をとりちがえ、単語をあやまり、文法をたがえることはままあったものの、とりあえず、いまのリヴァイは、字の読み書きができる。

 "おれは おまえが うつくしい と わかる"
 "おまえは おれが しる なかで すごく きれいだ"

 当時は、ばかばかしいことをさせるなと憤ったものだったが、いまではリヴァイは、感謝している。苦労しながら、何冊か本を読んで、得るものは多かった。壁の張り紙や店の看板、品がき、そんなものも読めるようになり、リヴァイは、訓練をし、喰い、寝て、生きていくためだけに生きていくのではなくなった。リヴァイの世界はひろがり、また、豊かになった。
 文字のおかげで、リヴァイは、こうして、思いを書き残すことさえできる。

 "おれは おまえの そばに いたい"

 がり、とペン先が紙をつきやぶり、机に傷を作った。かまわず、リヴァイは書きすすめる。

 "おまえが おれを ひつように しなく なっても"
 "おれは おまえの そばに いたい"

 リヴァイは、この文章を、手紙にするつもりはなかった。この言葉を宛てた相手に、わたそうなどとは、考えていなかった。これはただ、願望と思いとを、書きつけて、吐き出してしまいたいだけだ。文字をつかうことで、そうやって、自分の頭の中を、整理することもできるのだと、文字とともに教わった。
 眠れない夜は、たびたびおとずれる。そんな夜に、頭をめぐる声や記憶を、書きつけると、いくぶんかすっきりとして、眠れるようになることがあった。今夜は、そんな夜だった。

 "もし もしかして おれが おまえも"
 "あの クソともをそきおえるまで いきめびたなら"

 ぼんやりと、リヴァイは夢想する。壁のない世界。巨人のいない世界。むずかしい夢想だった。なにしろ、壁も、巨人も、リヴァイが生まれるずっとまえから、この世界にあったのだ。首をめぐらせても、壁の見えない世界。巨大なあごが、仲間の骨をかみくだく音を、聞かなくてもすむ世界。苦労して、それらを思いえがく。そうして、苦労して思いえがく世界には、いつも、リヴァイののぞむ、金色のかがやきも、まえを見すえる青空の瞳も、見あたらないのだ。
 リヴァイはわずかのあいだ、目を閉じた。

 "そのときには おれと"

 そこまで書いたとき、ペンが音を立てて折れた。リヴァイの筆圧に、木の柄の部分が耐えられなかったらしい。屑入れを引き寄せ、木くずを払って入れる。机の上から紙をもちあげると、紙の向こうから、ともしびのあかりが、ところどころにひらいた穴をとおして、差し込んでくる。ぼんやりと文章を読みかえし、ていねいにたたんで、引き出しにしまった。つめこまれている紙の束が、がさりと音を立てた。時期を見て、また、捨てなければなるまいと考える。
 机の周りをかんたんに掃除し、リヴァイはともしびを消した。冷え切った寝台へもぐりこむ。頭の中に、風景と言葉がめぐる。壁のない世界。のんびりと、平穏で、ふぬけたような世界。
 そんな世界に、おれとおまえが、仲間たちを幾人も幾人も殺して、それでも、そんな世界に、至れたならば、そのときには。
 整理されたものたちは眠りをさまたげることはなく、まぶたの裏にちかりと金色がきらめき、青空をみたのを最後に、リヴァイは眠りのやみに落ちた。

***

 人類最強の兵士が消えたのは、壁外調査のさなかのことだった。突如として現れた奇行種の群れは、索敵陣形をたやすく蹴散らし、兵士たちを混乱に陥れた。喰うためというよりは殺すために襲ってくる奇行種は、壁外調査において最大の脅威だ。
 混乱のまま、散り散りになりながら、調査兵団の一部はなんとか壁内へと帰還した。帰還できなかった兵士は、それでも通常どおりと言える、半数におさまっていた。
 その中に、リヴァイがいた。
 この数日、兵団の者たちは、兵長はきっと戻ってくる、と、駐屯兵団に疎まれながら、壁のうえから壁外を見すえている。エルヴィンには、そのおこないが愚かしく見えた。たしかに、リヴァイの力は圧倒的であり、壁外での失踪といえども、そのまま死と受け取らせないところがある。しかし、日をまたぎ、それでもなお帰還しないのであれば、もはや生死はあきらかだ。
 エルヴィンも、わずかな望みは抱いたが、それは、夜が明けるまでだった。馬を走らせづらいが、巨人の動きがにぶい夜のあいだなら、少数の手勢、あるいは単騎であっても、まだ生還の希望はあった。それが終わってしまえば、もはや生死は決している。時間がすぎればすぎるほど、巨人は引き寄せられる。屠れば屠っただけ、刃は折れる。ガスも尽きる。そうなれば、人類は壁外で生きてはいられない。
 リヴァイは死んだ。
 人類にとって大きな痛手だ、とエルヴィンは理解した。できることならば、伏せておきたい。リヴァイは民衆に人気のある兵士だ。リヴァイが巨人を屠るさまをみたこともない民衆たちだが、人類最強と言うわかりやすいふたつ名に、希望をみている。また、ちょうど調査兵団にリヴァイが入団した時期に、エルヴィンが考案した長距離索敵陣形を壁外調査に運用しはじめ、壁外調査での生還率がめざましくあがったこと、それも表向きには、リヴァイが入団したことによるものと言うことになっている。王政や憲兵団、調査兵団を支援する商会に、地下街にすむ無法者だったリヴァイの存在をみとめさせるための方便だったが、いまとなっては裏目に出てしまった。
 これ以上のときが過ぎ、リヴァイの死がだれの目からもたしかなものになれば、民衆の、商会の支持は落ちる。調査兵団兵士たちの士気も下がり、今期の調査兵団に新兵が入ることは、まず、あり得ないこととなる。人類が壁外へゆくことをのぞまない王政は、これをさいわいと、ふたたび調査兵団の解体案を打ちだすだろう。
 報告書には、不明者としてリヴァイの名を記し、提出したが、おそらくはちかいうちに詳細をもとめられることは目にみえていた。そのときを思うと、いや、そのさきを思うと、気が重くなった。

***

 夜になり、宿舎にもどる途中に、調査兵のひとりに呼びとめられた。お疲れのところもうしわけありません、と、エルヴィンよりもよほど憔悴した顔をして言う。
「リヴァイ兵士長は、まだ帰還されておりません」
 エルヴィンは、そうか、とだけ答えた。エルヴィンにとっては、リヴァイはすでに死んだ者のなかにかぞえられていたので、いまさらなにを言うのだろうと、うっすらと考えすらした。その思考をかぎ取ったかのように、調査兵は、若々しい顔に不満のいろをにじませた。
「エルヴィン団長は、もうリヴァイ兵長の生還を、あきらめておいでですか」
 それは、まるで、裏切りを責めるような声音だった。エルヴィンは、目のまえの調査兵が、かつての壁外調査でリヴァイの班に組み込まれたことがある男だと思いだしていた。
「リヴァイ兵長がまだ生きていることを、団長はもう信じておられないのですか」
 とび色のひとみが、怒りすらにじませてエルヴィンを見た。見かえしながら、エルヴィンは言った。
「わたしは、都合のよい奇跡を待って坐しているわけにはいかない」
 さっと、羞恥が調査兵の顔を走り、うろたえたように視線が揺れた。しばらく待ち、調査兵にもはやなにも言うことはないのだろうと判断してから、エルヴィンははやく休むよう命じて、その場をはなれた。

***

 手燭で手もとをを照らし、宿舎の、自室の鍵を開けながら、ふとエルヴィンは、隣にあるリヴァイの部屋の扉を見た。もう二度とあるじのもどらない部屋だ。いずれは片付けて、べつの者が使うことになるだろう。中にある、少ないリヴァイの私物は、わたす家族も恋人もいない以上、捨ててしまうほかない。
 エルヴィンは鍵穴から鍵を引き抜きながら、リヴァイの、施錠を怠る悪癖を思い出した。さすがに、壁外へおもむくようなときには、悪癖もなりをひそめるものだろうか。
 リヴァイの部屋の扉のまえに立ち、エルヴィンは、なにかを確かめるような手つきで、取っ手をつかんだ。ひんやりとした感触を手のひらに感じながら、ぐるりとまわす。そうして、軽く押すと、たやすく扉は開いた。無意識に詰めていた息を、ゆっくりと吐き出す。
 そうして入り込んだリヴァイの部屋は、あいかわらず、だれも住んだことのない部屋のようだった。すべてが整然として、寝台などは、真っ白なかけ布で一分の隙もなくおおわれている。しかし、リヴァイの部屋としてはあり得ざることに、うっすらと埃の気配がした。
 後ろ手に扉を閉めて、あたりを見渡した。幾度か出入りしたことがあったが、いつ入っても、ほとんどなにも変わらない。なにかが増えることも、減ることもない。作りつけの寝台や、机といす、本棚、衣服用の戸棚があるばかりだ。
 エルヴィンは本棚に歩み寄り、そこにおさめられた数冊の本をながめた。エルヴィンが字を読む練習としてあたえた簡単な内容の本や、リヴァイが字を読めるようになったことを知ったミケがおもしろがって贈った詩集があった。どちらもくたくたになっており、ずいぶんと読みこんだのだろうなと察せられた。そのほかに、料理の本や、草花の本までもがあった。巨人の生態に関するこむずかしそうな本もあったが、そのまま売りものになりそうなほどきれいで、おそらくは一度開いたきり、読み終えることも読みかえすこともなく置いたままなのだろう。
 ハンジだな、と苦笑しながら、エルヴィンが本を手にとり、めくってみようと、脇の机にわずかに寄りかかった。ふくらはぎのあたりで、かさりとなにかが音を立てた。
 エルヴィンが目を落とすと、引き出しの中から、紙の一部がはみ出しているのが見えた。くわえて、その紙に「彫り込まれた」悪筆も。エルヴィンは身をかがめ、すこしためらってから、机の引き出しをわずかに開き、はみ出していた紙を引っぱりだした。
 手燭と紙とを机の上に置く。なんとはなしにそのまま机を撫でた手が、いくつもの引っかかりを感じ、たしかにリヴァイはここで字を書いたらしい、とエルヴィンに思わせた。その一部が、この紙なのだろう。
 エルヴィンは目を落として、癖のある、という言葉では片付かないその不格好な字を読みはじめる。

 "たいようが ひかる きんの かみ"
 "おまえの ぬは あおぞらに みえる"
 "おまえの かみが あかりで ひかるのが すきだ"
 "おまえの めが まえを みるのが すきだ"
 "おれは おまえが うつくしい と わかる"
 "おまえは おれが しる なかで すごく きれいだ"
 "おれは おまえの そばに いたい"
 "おまえが おれを ひつように しなく なっても"
 "おれは おまえの そばに いたい"
 "もし もしかして おれが おまえも"
 "あの クソともをそきおえるまで いきめびたなら"
 "そのときには おれと"

 エルヴィンは、ふたたび身をかがめて、引き出しをひらいた。その中にある紙束を見、取り出して机の上に乱雑にひろげ、おおざっぱに読んでいく。あいつらを削ぎ殺してやると延々と書かれたもの、おそらくは死んだ仲間の名前をつづったもの、日記のようなもの、そして、詩のような文章が書きつけられたもの。
 削ぎ殺す「あいつら」は、巨人か、ときによっては憲兵、商会の者たちであり、死んだ仲間の名前はもちろんそのときどきでちがうものだった。日記のような書きつけは、その日食べたものだの、見たものだのに対する感想が、素気なく記されていた。
 ただ詩のような文章だけは、いつも、「たいようがひかるきんのかみ」と、「あおぞらのひとみ」をもつ相手に宛てられていた。
 その相手がだれであるか、エルヴィンは知っていた。
 知らず、口もとが笑みにくずれていた。苦笑のような、嘲笑のような、不格好な笑みに。リヴァイがあまりにもおろかで、あわれだった。ふと、あすも、壁上でリヴァイの帰還を待ちわびるのだろう調査兵たちの顔が頭に浮かぶ。あれらとおなじだ。存在しないものを、一途に待ち望んでいる。ありったけの、誠心と誠意とを、空費している。
「おまえが、こんなにも詩人だとは知らなかった」
 リヴァイが、訓練の終わった夜に、あるいは非番の日に、机に額を押し付け、ペンをへし折るようにしながら、紙に字を「彫り込んで」いくさまを思い浮かべるのは、あまりにたやすかった。いっかな直らなかった姿勢と、悪筆と、尋常でない筆圧とにため息をついたのは、そう遠い記憶ではない。リヴァイに文字を教えたのは、エルヴィンだった。
 リヴァイはなにを考えて、なにを思って、この文字を、文章を書いたのだろう。それはもはや永遠に答えを得ない問いだった。リヴァイは死んだ。"すべての巨人を削ぎ終わるまで、俺とおまえが生き延びたなら"、いまとなっては、むなしい仮定でしかない。
 いまとなっては。それでは、いまでなければ、リヴァイが生きているあいだならば、この仮定はなにかの意味をもっただろうか。
 エルヴィンはうなだれて、長いこと、その部屋から出なかった。

***

 それから2ヵ月後、リヴァイ兵士長と、同時期に行方不明になった兵士たちが正式に死亡認定された。もはやだれも、壁上で帰還を待たなくなっていた。
 調査兵や、一部の民衆からの強い希望があり、ふだん執り行う集団葬とはべつに、リヴァイ個人のための葬儀がいとなまれることとなった。空の棺に色とりどりの花を詰め、名を刻まれた墓標の下に埋める。嗚咽があたりを満たし、絶望のうめきさえ聞こえた。
 棺に土がかけられていくのを見届けてから、エルヴィンはその場を去った。やらねばならないことは山積していた。このさき、調査兵団が苦境に立たされるのはわかりきっている。調査兵団は、失うべきでないものを失った。それは刃であり、支えであり、希望でもあった。
 しかし、失われてしまったものを嘆き、それをぬぐい去る奇跡を坐して待ったところで、それは足もとが崩れ落ちるのを待つのとさして変わりはないだろう。
 人類の解放を。
 世界の真理を。
 エルヴィンの望みは変わることがない。だれの遺骸を石畳にして築いた、やわらかい道を進むのだとしても。

 空の棺には、花だけではなく、紙束も詰められていた。敵への激情と、仲間への思慕と、むなしい願いとが書きつけられた、粗末な紙束が。そのうちの一枚の紙の、余白に書きくわえられた、おろかしい願いのことは、エルヴィンのほかだれも知ることなく、土中に沈められた。